凍てついた銀河の残響、あるいは神に見捨てられた舞台で「王の凱旋」を幻視する夜
パリの朝は、絶望を冷やすために用意されている。
ル・マルレ・ジャズ・オーケストラ。
昨日の凄惨な地獄絵図のようなリハーサルを経て、僕の神経はささくれ立ち、胃の腑は冷え切ったままだ。
歴史という名の重力に押し潰された団員たち。
そして、その瓦礫の中で無邪気に「音の解体」を楽しんでいる隣人の、メグ・ポッター。
「……フン。やれやれ。僕の人生は、いつからゴミ溜めの再生工場になったんだ?」
僕は、鏡の中の自分に冷笑を浴びせ、アパルトマンを飛び出した。
向かう先は、名門『ル・マルレ』の本拠地。
今日から、本格的な立て直しが始まる。
いや、立て直しなどという生易しいものではない。
これは、死体を無理やり叩き起こし、ゾンビのように咆哮させるための、冒涜的な儀式だ。
「ショーンさん! お待ちください!」
背後から僕を追いかけてきたのは、事務局長のテオだ。
その手には、昨日僕が叩きつけた「追放者リスト」が握られている。
「本当に、シモンさんたち主要メンバーを外して、若手だけで組むおつもりですか?」
「テオ。勘違いするな」
僕は足を止めず、冷徹に言い放った。
「外すんじゃない。死んでいる細胞を切り離し、新しい血を注ぎ込むだけだ。音楽は、止まった瞬間に腐敗する。腐った肉を愛でる趣味は、僕にはない」
練習場に到着した僕を待っていたのは、昨日以上に殺伐とした空気だった。
エキストラとして集められた若手プレイヤーたちは、名門の看板に気圧されて委縮し。
一方で、首を宣告されたはずの古参たちは、プライドという名の死に装束を纏い、呪詛の視線を僕に投げかけている。
だが。
その混沌の真ん中で、一人だけ、全く別の次元に身を置いている少女がいた。
「キミ。……今日の空気、昨日より少しだけ『スウィング』してますよ」
メグだ。
彼女は、ボストンから持ってきた『スペース・ごろ太』のぬいぐるみをピアノの天板に乗せ、青白い指先で鍵盤を撫でていた。
その瞳は、深海のような静謐さと、残酷なまでの透明さを湛えている。
「メグ。キミは黙っていろ。……これから始まるのは、音楽じゃない。戦争だ」
僕は、愛用のフルアコを手に取り、ステージの中央に立った。
僕は、ペンを取り、ホワイトボードに巨大な「設計図」を書き殴った。
それは、従来のビッグバンド・アレンジを根底から覆す、緻密で攻撃的なモーダル・ジャズの構成図だ。
「……いいか。マルレというブランドは、今日この瞬間に死んだと思え。ここにいるのは、伝統の守護者ではない。ただの、飢えた野良犬どもだ」
僕の言葉に、練習場が凍り付く。
だが、僕は構わずにタクトを……いや、僕の「論理」を振りかざした。
「一曲目。『My Funny Valentine』。……ただし、バラードではない。倍速のアップテンポで、ベースラインは5拍子の変拍子だ」
「な……!?」
団員たちの間に、戦慄が走る。
伝統ある『ル・マルレ』で、聖域ともいえるスタンダードをこうも無残に解体するなど、彼らにとっては正気の沙汰ではなかったはずだ。
「ショーンさん、それはあまりに……!」
テオの悲鳴のような声を無視し、僕はカウントを刻んだ。
一、二、三――。
音が鳴った。
だが、それは音楽とは呼べない、バラバラなノイズの塊だった。
若手は僕の要求に技術が追いつかず、残された古参は、指先が伝統の呪縛に縛られて動かない。
「……違う! アルトサックス、もっとフラットさせろ! トランペット、リードの音を聴け! キミたちの耳は、飾りか?」
僕の冷徹な言葉が、練習場に響き渡る。
罵倒。
否定。
そして、容赦のない再構築。
僕は、彼ら一人ひとりの音の欠陥を暴き、その傷口に指を突っ込んで広げるような、残酷な指導を続けた。
かつてボストンで、落ちこぼれの『S・ビッグバンド』をシゴキ上げた時のように。
だが、ここはパリだ。
相手は、かつて巨匠たちと共にステージに立った自負を持つ、プライドの塊のような連中だ。
「……もう、たくさんだ!」
ついに、一人のトロンボーン奏者が楽器を叩きつけた。
「君の言うことは、ただの数学だ! 感情のない、冷たい計算機だ! そんなものがジャズか!」
「……感情?」
僕は、冷笑を浮かべた。
「その程度の感情で、僕の設計図が壊せるとでも思っているのか? ジャズは自由だという甘言に縋り、己の未熟さを正当化する。……それが、あなたの言う『感情』の正体だ」
練習場は、完全な沈黙に支配された。
絶望。
そして、底知れない嫌悪。
だが、その沈黙を切り裂いたのは、誰の叫びでもなかった。
――ドォン!
雷鳴のような、歪んだピアノの和音。
「……あは。キミ、今の音。宇宙の塵が衝突したみたいな音がしましたよ」
メグだ。
彼女は、練習が止まっていることなど気にも留めず、僕が書いた設計図の「外側」にある音を、勝手に弾き始めた。
既存のコード理論を完膚なきまでに破壊し。
不協和音の中に、異界の美しさを孕ませた、メグだけの旋律。
「メグ……!」
「キミ。……この人たちの音、まだ死んでません。ただ、眠ってるだけです。深海の中で、誰かに揺り起こされるのを待ってる」
彼女は笑った。
無邪気に。
世界を解体するような、静かな笑み。
彼女のピアノに誘われるように、一人の若手ドラマーが、シンバルを鳴らした。
それに続くように、ベースが、地這うような低音を響かせる。
それは、僕の設計図にはない、予期せぬ「ノイズ」だった。
だが。
そのノイズが混ざり合った瞬間、バラバラだった団員たちの音が、不気味なほどの「熱」を持ち始めた。
「……フン。やれやれ。僕の完璧な理論を、こうも簡単に汚してくれるとは」
僕は、フルアコの弦を強烈にストロークした。
メグの解体。
団員たちの反発。
そして、僕の構築。
三つの力が激突し、練習場の空気が、物理的な熱を帯びて膨張していく。
それは、かつて僕がヴァレンティの背中に見た、あの「音楽の神」が降りてくる瞬間の予感。
「いいか。……この音を忘れるな。これが、キミたちの『再生』だ」
僕は、汗を拭うことさえ忘れ、彼らに向かって吠えた。
練習が終わる頃には、全員が、まるで嵐に巻き込まれた後のような、茫然自失とした表情で座り込んでいた。
だが。
その瞳には、昨日まであった濁った諦めではなく、何か恐ろしいものを見てしまった者の、形容しがたい高揚が宿っていた。
僕は、コートを手に取り、出口へと向かった。
「ショーンさん、あの……!」
テオが僕を呼び止める。
「明日も、また……来てくださいますか?」
「……フン。これだけ僕の服を埃っぽくしておいて、逃げられると思うな」
僕は、背中越しに冷たく言い捨て、練習場を後にした。
パリの夕暮れ。
エッフェル塔の影が、街を侵食していく。
僕は、隣を歩くメグの気配を感じながら、静かに息を吐いた。
伝統の破壊。
名門の再生。
そして、この野生の天才との、果てしない「接続」の記録。
「キミ。……お腹、空きましたね。ハミルトン特製パスタ、食べたいです」
「……黙れ。ゴミ屋敷の主。まずは、その『ごろ太』を洗ってから言え」
僕は、彼女の青い瞳を見つめ、わずかながらの、だが確かな勝利の予感に、口元を綻ばせた。
冬のパリ。
銀河の残響は、まだ止まない。




