終焉を告げるテンション・ノート、あるいは地獄の底で「野生の宝石」が輝く瞬間
パリの冷気は、僕の傲慢を嘲笑うために存在している。
ル・マルレ・ジャズ・オーケストラ。
その練習場に漂うのは、腐敗したプライドと、再生を諦めた者たちの湿った吐息だ。
僕が持ち込んだ緻密なスコアは、彼らにとっては難解な暗号に過ぎず、僕が刻むビートは、彼らの硬直した肉体を切り裂くナイフにしかならなかった。
「……フン。やれやれ。歴史ある楽団の正体が、この程度の『音の墓場』だったとはな」
僕は、手にしたフルアコの弦を乱暴に掻き鳴らし、毒づいた。
目の前に並ぶ団員たちの瞳には、もはや音楽への飢えなど残っていない。あるのは、若造に平穏を乱されたことへの、粘着質な不快感だけだ。
「ショーンさん、少し……少しだけ休憩を挟みませんか?」
事務局長のテオが、今にも倒れそうな顔をして擦り寄ってくる。
「彼らも人間です。これ以上の強行軍は、心が折れてしまいます……」
「折れる心があるなら、まだマシだ、テオ」
僕は冷徹に突き放した。
「僕に見えるのは、錆びついたメトロノームだけだ。心が折れる前に、音楽が死んでいる。それを蘇らせるには、ショック療法しかないんだよ」
だが。
僕の焦燥をあざ笑うかのように、練習場の隅から、場違いなほど無邪気で、それでいて残酷なまでに純粋な旋律が立ち上がる。
「キミ。……そんなに眉間にシワを寄せてたら、せっかくの『ブルーノート』が逃げちゃいますよ」
メグ・ポッター。
僕の隣室に住み、僕の平穏を蹂躙し続ける、制御不能の「野生」。
彼女は、ボストンから持ち込んだ薄汚れた『スペース・ごろ太』のぬいぐるみをピアノの横に鎮座させ、鍵盤の上で細い指を躍らせていた。
「メグ、キミは黙っていろと言ったはずだ」
「無理です。……だって、この場所、死線が多すぎますもん。私が解体してあげないと、キミまでガラクタになっちゃう」
彼女は笑った。
玖渚友を彷彿とさせる、静謐で、それでいて世界を根底から否定するような笑み。
彼女が奏で始めたのは、僕が苦心の末に編み出したはずの、複雑なテンション・コードの変奏。だが、それは僕の意図を遥かに超えた、野生の直感による再構築だった。
伝統的なスウィングを破壊し、拍子の概念を嘲笑う。
それは、マルレという老いた怪物に、無理やりアドレナリンを注入するような暴挙だ。
「な……何だ、そのピアノは! 楽譜を無視するな!」
古参のサックス奏者が叫ぶ。
「楽譜? ……ああ、あの不自由な設計図のことですか」
メグは鍵盤から目を離さず、青白い肌を窓から差し込む冬の光に透かせて答えた。
「そんなものに縛られてたら、銀河の果てまで飛べませんよ。キミだって、本当はわかってるんでしょう?」
彼女の視線が、僕を貫く。
青い瞳。吸い込まれるような、底なしの深淵。
僕は、彼女の鳴らす不協和音の中に、僕が求めていた「譜面の外側にある魂」の断片を見てしまった。
「……勝手にしろ」
僕は、自分のフルアコを構え直した。
「だが、僕のビートから一拍でも遅れたら、その不気味な着ぐるみと一緒に放り出すからな」
「あは。……望むところです」
セッションが始まった。
それは、もはやリハーサルなどという生易しいものではない。
メグという「混沌」と、僕という「論理」の殴り合い。
そして、その激突から生じる熱に、団員たちが否応なしに巻き込まれていく。
伝統に固執していたシモンが、苛立ち紛れに楽器を吹き鳴らす。
冷笑的だったノエミが、メグの挑発に乗るように、突き抜けるようなハイノートを叩きつける。
バラバラだった音が、殺意に近い情熱を帯びて、一つの塊へと変貌していく。
それは、美しい調和ではない。
互いを罵り合い、否定し合い、それでもなお音を重ねずにはいられない、ジャズの本能が剥き出しになった瞬間だった。
「……いいぞ。もっと来い、マルレ! キミたちの魂は、まだ腐りきってはいなかったわけだ」
僕は、汗にまみれた前髪を振り払い、激しく弦を弾いた。
メグのピアノが、僕のギターと共鳴し、空間の分子が震えるのを感じる。
音の粒子が、冬の冷たい空気を焼き切り、練習場を真夏の夜のような熱狂へと変えていく。
テオが、呆然と立ち尽くしているのが見えた。
彼が愛した「かつての名門」は、今、目の前で一度死に、そして不気味な産声を上げて再生しようとしていた。
リハーサルの終わりを告げたのは、時計の針ではなく、団員たちの肉体の限界だった。
楽器を置き、肩で息をするプレイヤーたち。
そこには、僕に向けられていた陰湿な敵意は消え、代わりに、得体の知れない高揚感と、戦場を生き延びた者同士の連帯感が漂っていた。
「……今日はここまでだ」
僕は、冷徹を装った声で告げた。
「明日も同じ時間だ。遅れた奴は、マルレの歴史と一緒にゴミ箱に捨ててやる」
「……ショーンさん」
シモンが、汗を拭いながら僕を見た。
その瞳には、一人の音楽家としての、確かな敬意が宿っていた。
「君の設計図……次は、もう少しマシに吹いてやるよ」
僕は、それに応えることなく、コートを手に取った。
練習場の外に出ると、パリの冬の夕闇が、街を蒼く染めていた。
隣を歩くメグは、またいつものように『スペース・ごろ太』を抱き、ふわふわとした足取りで歩いている。
「キミ。……今日のノイズ、結構いい感じでしたね。宇宙の塵が、星に変わる音がしました」
「……相変わらず、キミの言葉は理解不能だ」
僕は吐き捨てたが、その心臓は、まだ激しいスウィングを刻んだままだ。
「ねえ、キミ。……お腹、空きませんでした? ケープコッドのタフィー、半分あげますよ」
「いらん。……それより、夕飯のメニューを考えさせろ。マルレの再生には、タンパク質が足りていないようだからな」
僕は、彼女の差し出したベタつく菓子を無視し、足早に歩き出した。
冷たい風が頬を打つ。
だが、僕の視界は、かつてないほど明瞭だった。
ボストンという座標に縫い止められていた僕は、今、この「壊れた青い傑作」と共に、世界を解体し、再構築し始めている。
それは、神にも予測できない、究極の不協和音。
パリの石畳を叩く僕の靴音は、いつしか、明日へのカウントダウンを刻んでいた。




