表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/11

宣戦布告の裏拍(オフビート)、あるいは偽りの巨匠への弟子入り

ボストンの冬は、理性を剥ぎ取る。2026年、2月。チャールズ川を渡る凍てつく風は、バークリー音楽大学の煉瓦造りの校舎さえも、冷徹な秩序で塗り潰そうとしていた。


僕、ショーン・ハミルトンは、自身の限界に絶望していた。

伝説のピアニスト、マックス・ハミルトンの息子という肩書きは、飛行機恐怖症という呪いの前では無力だ。ボストンという狭い「座標」に縫い止められた僕は、聖地ニューヨークの土を踏むことさえできない。


そんな僕の前に現れたのは、音楽の歴史を動かしてきた生ける伝説――のはずの男だった。


「……ハンス・アクセル・フォン・シュタイン」


世界的なジャズ・インプレサリオ。だが、目の前にいるのは、夜な夜なクラブ『One More Kiss』で野球拳に興じる、救いようのないエロジジイだ。


「キミ、なかなかいい面構えだネ。でも、音楽が少し……真面目すぎるヨ」


シュタイン――メグが「ミルヒー」と呼ぶその男は、僕が心血を注いで書き上げたスコアを、まるで使い古されたナプキンのように眺めた。


「……僕に、あなたの技術を教えてください。バンドをどう躍動させ、どう色づけるのか。この街で燻っている僕を、譜面の外側へ連れ出してほしい」


僕はプライドを捨て、頭を下げた。彼がどれほど品性下劣であろうと、その指先が奏でる「魂を揺さぶるスウィング」だけは本物だと知っていたからだ。


シュタインはニヤリと、残酷な笑みを浮かべた。


「いいヨ。ただし、条件がある。……今日からこのバンドは、キミがリードするんだヨ」


彼が差し出したのは、一枚のメンバーリストだった。


翌日。指定された練習室の扉を開けた瞬間、僕は自分の正気を疑った。


「ヘイ、ショーン! 俺がこのバンドのリード・テナーだ。よろしくな!」


実家のダイナー『Red Lantern』の油の匂いをさせたライアン・ミラーが、ド派手なエフェクターを繋いだサックスを吹き鳴らす。

ドラムセットの影からは、巨大なアフロヘアーを揺らしたマスミが、恋する乙女のような視線を送ってくる。


彼らは、バークリーの正規ビッグバンド(Aバンド)から漏れた、選りすぐりの「落ちこぼれ」集団だった。


「シュタイン。これは何の冗談だ。こんな素人同然の連中で、何をしろと言うんだ。……第一、指揮者もいないこの編成で!」


「ジャズに指揮者コンダクターなんていらないヨ。必要なのは、全員の心臓を繋ぐ『核』だ。……ショーン、今日からキミがこのバンドのアレンジャー兼リーダーだ」


シュタインはそう言うと、ストリップ劇場のパンフレットをひらつかせ、僕に何も教えないまま部屋を出ていった。


「……ふざけるな」


僕は怒りに震えながら、自らのギブソンのフルアコを抱えた。

視線の先には、メンバーでもないのに部屋の隅でマングースの着ぐるみを撫でているメグ・ポッターがいる。


「……ショーン。怒っちゃダメだよ。……ほら、聴こえるよ? 壊れたガラクタたちが、キミの音を待ってる」


メグが、世界を解体するような無邪気な笑みを浮かべる。


「……いいだろう。見ていろ、ミルヒー。このゴミ溜めのようなアンサンブルを、僕の論理ロジックと、このギター一本で叩き直してやる」


僕はギブソンの弦を鋭く振り抜いた。

それが、僕というエリートが初めて「完璧な譜面」を捨て、泥濘ぬかるみのジャムセッションへと飛び込んだ瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ