表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/11

氷の街を融かすブルーノート、あるいはゴミ溜めで咆哮するサックスの激情

ボストンの冬は、理性を剥ぎ取る。2026年、2月。チャールズ川を渡る凍てつく風は、バークリー音楽大学の煉瓦造りの校舎さえも、冷徹な秩序で塗り潰そうとしていた。


廊下を歩く僕、ショーン・ハミルトンの靴音は、正確な4/4拍子を刻んでいた。だが、僕の指先は、手にしたスコアの余白に、執拗なまでにテンション・コードを書き込んでいる。


「……ショーン。そのコード、すごく『不自由』な音がする。……もっと、銀河の塵みたいに、ばらばらに散らばればいいのに」


不意に、背後から無機質な、しかし鼓膜の裏側を冷たい指先でなぞるような声。

メグ・ポッター。

彼女は練習室の片隅、僕が「青い死体置き場」と呼ぶゴミの山の中で、愛用の Fender Rhodes に頬を寄せ、虚空を見つめていた。青白い肌、吸い込まれるような青い瞳。感情を排したその瞳は、世界を音のデータとして解体し、再構築するためにのみ存在している。


Shutterstock

詳しく見る


「……ポッター。お前の言う『自由』など、ジャズにおいてはただのノイズだ。アンサンブルには、論理的な裏付けと、それを統率するアレンジャーの意志が必要なんだ」


「……ノイズ。……ショーンは、いつもそう言う。……でも、私の耳には、キミの書いた譜面が『泣き叫んでいる』ように聞こえるよ。……正解という檻の中で、……窒息しそうだって」


メグは静かに、そして残酷なまでに純粋な笑みを浮かべた。

彼女が奏でるローズの歪んだ音色は、既存のジャズ理論を完膚なきまでに破壊し、僕の構築した完璧な数式を、無慈悲に解体していく。

だが、その破壊の跡に生まれる「何か」に、僕は抗いがたく惹きつけられていた。

ニューヨークへ行けない、ボストンという座標に縫い止められた僕の絶望を、彼女の音だけが、一瞬だけ無重力へと誘うのだ。


その日の午後。

大学裏のダイナー「Red Lantern」は、熱気と油の匂いに包まれていた。

ライアン・ミラーの実家。そこは今、僕が指揮リードする「S・ビッグバンド」の臨時練習場と化している。


「ヘイ、ショーン! 見てくれよ、この新しく導入したエフェクター! サックスの音が、まるで火を噴く龍みたいになるぜ!」

ライアンがテナーサックスに無数のケーブルを繋ぎ、悦に入った声を上げる。


「……ミラー。ジャズをロックの紛い物にするつもりか? お前の役割は、セクションの底を支え、骨太なスウィングを生み出すことだ。そんな玩具は捨てろ」


「……はぁ? 玩具だと? 俺の感性を否定する奴に、このバンドを語る資格はねえ!」


一触即発の空気。

エリート学生である僕と、叩き上げの野良サックス奏者であるライアン。

僕たちの溝は、ボストンの雪解けよりも遠いように思えた。


だが、その時。

店の隅、古びたアップライトピアノの前に座っていたメグが、唐突に鍵盤を叩いた。


奏でられたのは、僕が昨日、深夜の自暴自棄の中で書き捨てたはずのフレーズ。

メグの指先が、僕の「檻」をこじ開ける。

彼女は楽譜など見ていない。ただ、僕の脳内にあった音の断片を、サヴァン的な記憶力で「接続アクセス」し、それを暴力的なまでのポリリズムへと変換している。


「……ライアン。……あんたの龍、……ここで吠えてみて」


メグが、ライアンに視線を送る。

ライアンは一瞬、呆然としたが、彼女の奏でる圧倒的なグルーヴに引きずり込まれるように、サックスを構えた。


――咆哮。


エフェクターを通したサックスの歪みが、メグのピアノと共鳴する。

それは僕が書いた譜面を逸脱し、しかし、僕が心の底で求めていた「解答」そのものだった。

論理では説明できない、剥き出しのパッション。

ゴミ溜めのようなダイナーに、一瞬だけ、ニューヨークの摩天楼さえも霞むような「本物のジャズ」が降臨した。


僕は、自らのギブソンのフルアコを抱え、その渦中に飛び込んだ。

リードを執るのに指揮棒などいらない。

僕の刻むカッティングが、ライアンの咆哮を加速させ、メグのノイズを旋律へと変えていく。


「……やれやれ。欠陥品同士、仲良くゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」


僕は自嘲気味に笑い、しかし、その瞳にはかつてない熱が宿っていた。

完璧主義者である僕が、不完全な彼らの音に、自分の居場所を見出している。

それは、ボストンの凍てつく冷気を焼き切るような、青い熱量だった。


演奏が終わった後、ライアンは肩で息をしながら、僕を見て不敵に笑った。

「……悪くねえじゃねえか、エリート様。……あんたの書く曲、……意外とスウィングしてやがる」


「……ミラー。次は、第16小節のアーティキュレーションを修正しろ。僕の耳を満足させるには、まだ程遠い」


僕は突き放すように言ったが、心の中では確信していた。

このバンドは、化ける。

シュタインが残した「変人たちの寄せ集め」は、メグ・ポッターという起爆剤を得て、既成概念を粉砕する最強の軍団へと変貌を遂げようとしている。


夜。

アパートの廊下で、メグが僕の裾を掴んだ。

彼女の青い瞳が、僕の深淵を覗き込む。


「……ショーン。……キミの音、……すごく『おいしく』なってきた。……明日も、……私の隣で、壊れてくれる?」


「……フン。お前の変な癖が移っただけだ。……さっさと風呂に入れ、ポッター」


僕は冷たくドアを閉めた。

だが、暗い室内で一人、ギターを手にした時、僕の指は無意識に、彼女の奏でたあの自由なリズムを追っていた。

ボストンの雪は、まだ降り止まない。

だが、僕の心臓は、この凍てつく座標を突き抜けるような、強烈なブルーノートを刻み続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ