表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/13

氷のギブソンと不協和音の檻、あるいはガラクタたちの狂詩曲

ボストンの冬は、理性を剥ぎ取る。2026年、2月。チャールズ川を渡る凍てつく風は、バークリー音楽大学の煉瓦造りの校舎さえも、冷徹な秩序で塗り潰そうとしていた。


僕、ショーン・ハミルトンは、その冷気の中心に立っていた。手の中にあるのは、ギブソンのフルアコ。そして目の前に広がるのは、音楽の墓場から這い出してきたような「落ちこぼれ」の山だ。


「……ポッター。なぜキミがそこにいる」


僕は、部屋の隅でマングースの着ぐるみを撫でているメグを、冷徹な視線で射抜いた。彼女はピアノ枠でもないのに、当然のような顔をして僕の練習室に居座っている。


「……ショーン。キミ、また数字を数えてる。……ほら、聴こえるよ? ガラクタたちが、キミの『接続』を待ってる。……死んじゃいそうな、いい音だよ」


メグが、世界を解体するような無邪気な笑みを浮かべる。彼女の青白い肌に宿る、死線のような青い瞳。その視線の先には、僕がシュタイン(ミルヒー)から押し付けられた「S・ビッグバンド」の面々がいた。


「ヘイ、ショーン! 俺のサックスに、新しいエフェクターを繋いでみたぜ! これでロックなジャズの完成だ!」


リード・テナーのライアン・ミラーが、足元の機材をガチャガチャと鳴らしながら叫ぶ。その音は、もはや楽器の咆哮ではない。ただの騒音ノイズだ。


「……ミラー。その歪んだ音色は、コードのテンションを汚すだけだ。外せ。……それから、マスミ。キミのドラムは手数が多すぎる。……ポリリズムと脱線を取り違えるな」


「……ショーン様ぁ! その冷たい目、たまりませんわんっ!」


アフロヘアーを揺らしたマスミが、ドラムスティックを杖のように振り回す。

地獄だ。ここは、ジャズの殿堂であるはずのバークリーの、最も汚れた吹き溜まり。


僕は、自らのギブソンの弦を、鋭く、そして冷徹に振り抜いた。


「……全員、聴け。ジャズは論理とスウィングの完全なる数学である。……僕の譜面アレンジに従えない者は、今すぐこの部屋から消えろ」


僕の放った音は、氷の刃となって練習室の空気を切り裂いた。完璧主義。傲慢。エリート。そう呼ばれることに、痛みは感じない。僕には時間がないのだ。このボストンという座標に縫い止められている僕が、いつか世界へ飛ぶためには、ここで圧倒的な「正解」を証明し続けるしかない。


練習が始まって三時間。僕の耳に届くのは、不協和音の残骸ばかりだった。僕が書いた、マイルス・デイヴィスをも凌駕するほど緻密なモーダル・ジャズのスコア。だが、彼らはその「論理」を理解しようとしない。


「ショーン、固いぜ! もっとこう、パッションで吹こうぜ!」


ライアンが、また勝手なフレーズを吹き始める。


「……パッション? ミラー、キミの言うそれは、ただの技術不足の言い訳だ。譜面の裏にあるオフビートを、一ミリの狂いもなく刻め。それができないなら、キミはただの『サックスを持った騒音機』だ」


「なんだと……!」


練習室の空気が火花を散らす。メンバーたちの目に反抗の光が宿る。僕は、彼らの「個性」という名の無秩序を、恐怖と論理で捩じ伏せようとしていた。


その時だ。不意に、部屋の隅からフェンダー・ローズの、歪んだ、しかし瑞々しい音が響いた。メグが、僕の譜面にはない、それでいて僕のアレンジの「核心」を突くようなコードを投げ込んできたのだ。


「……接続、完了。……ショーン。キミの譜面、すごく綺麗だよ。……でも、……ちょっとだけ、……息ができてないみたい」


メグが、鍵盤に指を這わせる。彼女は楽譜を読んでいない。僕が徹夜で書き上げた設計図を、彼女は「音」だけで解体し、その中にある「真理」だけを掬い取ってみせた。


「……ポッター。勝手に弾くな。……だが、……今のは」


彼女が弾いたテンション。それは、僕が計算では導き出せなかった、音楽の「余白」だった。


「……ねえ、ショーン。……キミ、本当は分かってるんでしょ? ……譜面の外側にある、……真っ暗な、……でも温かい『何か』を」


メグの視線が、僕の心の奥底に封印してきた「空白」を抉り出す。


「……休憩だ」


僕は、ギターを置いた。指先は冷え切っているのに、体の中には不気味な熱が宿っていた。


僕は練習室を飛び出し、大学の裏通りにあるダイナー『レッド・ランタン』へと向かった。そこには、ライアンの父、ビルが経営する「ジャンクな日常」が広がっている。


「よお、ショーン! 今日も修行か? 特製パスタ、作ってやるから元気出せよ!」


ビルの声が、凍てついた僕の意識を微かに溶かす。僕は、カウンターに座り、自分の手を眺めた。完璧な譜面。完璧なリード。それだけでは、この「ガラクタ」たちは輝かないのか。


『キミの音楽、……ちょっとだけ、……息ができてないみたい』


メグの声が、頭の中でリフレインする。僕は、スマホを取り出し、メグにメッセージを送った。


『今すぐレッド・ランタンに来い。……キミのノイズを、どう処理すべきか、……少しだけ、検討してやる』


数分後。扉を勢いよく開けて、マングースを抱えたメグが姿を現した。


「……ショーン! ……接続、……おかわり!」


彼女の無邪気な笑み。それは、僕というエリートが築き上げた城壁を、一瞬で崩壊させる爆薬だ。


ボストンの冬は、まだ始まったばかりだ。不協和音の向こう側に、僕たちはどんな「ブルー・ノート」を見つけるのか。僕のギターの弦が、再び静かに震え始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ