泥濘に咲くブルーノート、あるいは「かつての栄光」を解体するための破壊的セッション
パリの冬は、僕のプライドを執拗に削り取る。
ル・マルレ・ジャズ・オーケストラ。
その輝かしい歴史の残骸を目の当たりにした僕は、激しい眩暈を覚えていた。
練習場に集まったのは、やる気のないエキストラと、内職のスケジュール確認に余念がない古参の団員。
譜面台に並ぶのは、半世紀前からアップデートされていない埃を被ったアレンジ。
「……フン。やれやれ。歴史という名の墓場を掘り起こすのが、僕の仕事だったというわけか」
僕は自嘲気味に呟き、事務局長のテオを睨みつけた。
テオは申し訳なさそうに肩をすくめ、脂汗を拭っている。
「ショーン、彼らも生活がかかっているんです。マルレは今、沈みゆく泥船。誰もが、いつ逃げ出すべきかタイミングを図っている」
泥船、か。
かつてボストンの「R☆Sビッグバンド」で、研ぎ澄まされた刃のような音楽を鳴らしていた僕にとって、この怠惰な空気は毒に等しかった。
僕は一刻も早く、この「音のゴミ溜め」を清算し、僕の設計図に従う真の音楽集団へと作り変えなければならない。
だが、現実は残酷だ。
団員たちは、弱冠20代の、それもアメリカから来た若造の言葉に、耳を貸そうともしない。
「おい、ボストンの。僕たちは長年このスタイルでやってきたんだ。今さら、君の言うポリリズムだのテンション・コードだのに付き合う暇はないんだよ」
彼らの視線には、明確な蔑みと、変化を拒む頑固な意志が宿っていた。
僕は、フロントマンとしての孤独を噛み締めながら、練習場の外へと飛び出した。
目的は、行方をくらませている団員たちの「偵察」だ。
テオを伴い、パリの街を奔走する。
一軒目のアパルトマン。
そこにいたのは、かつての看板トランペッターだった。
だが、彼は今、地元の祝祭で鳴らすような凡庸な音楽の練習に明け暮れている。
「マルレ? ああ、あそこはもう終わりだ。今の僕は、この『仕事』で手一杯なんだよ」
二軒目、三軒目……。
どこへ行っても、聞こえてくるのは「かつての名門」への訣別と、音楽に対する情熱を失った者の冷たい言葉ばかりだった。
パリの石畳が、僕の足取りを重くする。
僕は、自分が信じてきた「音楽の論理」が、この街では何の意味も持たないのではないかと、激しい恐怖に襲われていた。
マックス・ハミルトンの息子。
エリート・アレンジャー。
そんな肩書きは、この凍てつく冬のパリでは、一枚の古新聞ほどの価値もない。
その時だ。
隣を歩くテオが、不意に足を止めた。
「……ショーン。あれを見てください」
視線の先。
パリの街角にある、古びたカフェのテラス席。
そこには、僕の脳裏に焼き付いて離れない、あの「青白い閃光」が座っていた。
メグ・ポッター。
彼女は、ボストンから持ってきたお気に入りの『スペース・ごろ太』のぬいぐるみを抱え、ぼんやりと空を見上げていた。
その瞳は、いつになく虚ろで、まるでこの街の重圧に押し潰されそうになっているようにも見えた。
「……メグ」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりと首を巡らせた。
「あ、キミ。……パリの空は、ケープコッドの海よりも暗いですね」
彼女の言葉に、僕は胸を締め付けられるような感覚を覚えた。
コンセルヴァトワールでの初レッスン。
シャルル・オクレールという巨匠を前に、彼女もまた、自分の「野性」をどう扱えばいいのか、迷いの中にいるのだ。
「やれやれ。欠陥品同士、仲良くゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」
僕は彼女の隣に腰を下ろし、冷めきったエスプレッソを煽った。
理論を捨て、楽譜を拒絶し、ただ本能のままに音を解体してきた彼女。
そして、完璧な論理で音楽を構築しようとして、今、その限界にぶち当たっている僕。
正反対の座標にいるはずの僕たちが、この異国の地で、同じ暗闇を見つめている。
「キミ。……あのアナログな音が、聞こえますか?」
メグが、ふいに耳を澄ませた。
カフェの店内から流れてくる、古い蓄音機のジャズ。
それは、録音状態の悪い、ノイズだらけの古いレコードだった。
だが、そこには、今のマルレの団員たちが失ってしまった「音楽への飢え」が、確かに刻まれていた。
不完全。
ノイズまみれ。
理論以前の、魂の叫び。
「……ああ。聞こえるよ、メグ」
僕は、自分の両手を見つめた。
ギターを持たず、ただ空っぽのままの指。
僕はこれまで、自分の設計図を団員たちに押し付けることばかりを考えていた。
だが、彼らがかつて持っていたはずの「音を鳴らす理由」を、僕は一度でも考えただろうか?
僕は立ち上がり、テオに向き直った。
「テオ。明日、もう一度リハーサルを行う。今度は、僕のスコアを演奏させるためじゃない」
「……え?」
「マルレという古い怪物を、一度完全に破壊するんだ。そして、その瓦礫の中から、彼ら自身の『ブルーノート』を掘り起こさせる」
僕は、カフェに座るメグを一瞥した。
彼女の青い瞳に、わずかながらの熱が戻るのを見た。
「メグ。明日、練習場に来い。キミのそのデタラメなピアノで、老いぼれた奴らの目を覚ましてやれ」
「……キミがそう言うなら。ムギャ。……あ、いえ、承知しました」
彼女は無邪気に笑い、再び『ごろ太』を抱きしめた。
パリの夜風が、僕の頬を刺す。
だが、先ほどまでの恐怖は、もうどこにもなかった。
マルレの再建。
メグとの共鳴。
そして、僕自身の「音楽」の再定義。
やるべきことは、山積みだ。
僕は、闇の中に沈むパリの街並みに向かって、静かに宣戦布告をした。
「見ていろ、世界。……本当のジャズは、これからだ」




