未完成のレクイエム、あるいは「奏者」という名の楽園を棄てて、孤独な統治へと踏み出すための聖別
パリの冷気が、僕の指先を執拗に弄ぶ。
ル・マルレ・ジャズ・オーケストラの練習室。その隅に置かれた僕のギターケースは、まるで主を待つ忠実な猟犬のように、静かに横たわっていた。
中には、ボストンの熱狂を共に戦い抜いたギブソンのフルアコが眠っている。弦の振動を指先で感じ、自分のリズムで空間を支配する快感。それは、僕にとって唯一の救いだった。
だが、今の僕は、そのケースに触れることさえ自分に禁じていた。
「……やれやれ。自分の音を鳴らせないことが、これほどまでに胃を焼くものだとはな」
僕は自嘲気味に呟き、空っぽの両手を握りしめた。
楽器を持たずにフロントに立つ。それは、音楽という名の戦場において、防具も武器も捨てて裸で立つに等しい行為だ。
「ショーン。いつまでそうやって、自分の爪を隠しているつもりだ? お前がギターを持てば、このバラバラな楽団も少しはマシな音を鳴らす。プレイヤーとして彼らを捩じ伏せるのが、お前の得意技だったはずだろう」
背後で、シュタインが退屈そうに欠伸をした。
「ミルヒー、お前は分かっていて言っているだろう。僕がギターを弾けば、僕はただの『上手いギタリスト』だ。彼らは僕の音に追従し、僕の影を踏むだけで満足してしまう」
そう。それでは意味がないのだ。
僕が目指すのは、ボストンの「R☆Sビッグバンド」を超える、真の意味でのジャズ・レボリューション。
そのためには、僕自身が一人の奏者であることを卒業しなければならない。
サックス、トランペット、トロンボーン、リズムセクション……そのすべての楽器を、僕の脳内にある理想のテンション・コードで、一つの巨大な「生命体」として鳴らし切る。
ディレクター(全体統括)としての覚悟。
それは、自分自身の演奏という快楽を切り離し、他者の音の中に自分の魂を投影する、残酷なまでの自己犠牲の上に成り立っている。
「……諸君。楽器を構えろ」
僕は、ギターケースに背を向け、フロントの定位置に立った。
集まったマルレの団員たちは、相変わらず冷ややかな視線を僕に投げかけている。
「おい、ボストンの若造。今日もその空っぽの手で、僕たちを操るつもりか?」
コンサートマスターのトーマス・シモンが、嘲笑を浮かべてアルトサックスを構えた。
「ああ、そうだ。僕がギターを弾かないのは、君たちの音がまだ、僕のギターと共鳴するレベルにすら達していないからだ」
僕の挑発に、練習室の空気が一気に沸騰する。
それでいい。
ジャズは、摩擦から生まれる熱量だ。
冷めた伝統の中に安住している彼らの魂に、火を付けるための火種は、僕自身の音ではなく、僕が突きつける「設計図」の中にしかない。
僕は、右手を高く掲げた。
指先が、目に見えない無数の弦を捉える感覚がある。
頭の中で、メグ・ポッターの無秩序で、それでいて真理を穿つようなフェンダー・ローズの音が響き渡る。
「……壊れてる。だから、キミが必要なんだよ」
かつて彼女が浮かべた、あの無邪気な笑み。
彼女が隣にいれば、僕のこの「完璧な論理」を笑い飛ばし、もっと自由な場所へと連れ去ってくれただろうか。
だが、今の彼女は、海の向こうだ。
僕は僕の足で、このジャズの本場に座標を刻まなければならない。
「One, Two. ……One, Two, Three, Four!」
僕のカウントが、静寂を切り裂いた。
直後、マルレの練習室に、かつてないほどの音楽的衝突が巻き起こる。
それは、美しい旋律ではなかった。
僕が書いた、極めて数学的で、かつ感情的なポリリズムが、伝統という名の古い壁を内側から食い破っていく。
シモンが、苛立ちをぶつけるような激しいブローを繰り出し、リズムセクションが、僕の指先が刻む変拍子に、食らいつくように応戦する。
僕は、楽器を持っていない。
だが、僕の全身は、彼らが鳴らす一音一音と、かつてないほど濃密に接続していた。
誰よりも孤独で、誰よりも雄弁な、指揮なき統率。
「……フン。悪くない」
演奏が止まった後、僕は小さく息を吐いた。
団員たちの目つきが変わっている。
そこにあるのは、若造への蔑みではなく、未知の音楽への戸惑い、そして――抗いがたい興奮だ。
僕は、再びギターケースを一瞥した。
まだ、その蓋を開ける時ではない。
僕がこのマルレという巨大な怪物を完全に飼い慣らし、メグ・ポッターという「野生の宝石」と再び対峙するその瞬間まで。
僕のギターは、このパリの凍てつく冬の中で、静かに牙を研ぎ続けることになるだろう。
「……次だ。今のセクションをもう一度。今度は、もっと脳髄を揺らすようなブルー・ノートを寄越せ」
僕は、誰にも見えないタクトを振り下ろす。
黎明のインプロビゼーション。
それは、奏者であることを棄てた僕が、音楽の王として君臨するための、最初の一歩だった。




