終止符なき孤独、あるいは「約束」という名の呪縛を背負った、蒼白きインプロバイザーの出発
パリの空気は、石造りの街並みに染み付いた歴史の重みで、ボストンのそれよりも幾分か粘り気が強い。
セーヌ川沿いを歩く僕の耳には、街の喧騒さえもが複雑なポリリズムとして流れ込んでくる。だが、その中心にあるべき僕自身の旋律は、いまだに霧の中に隠れたままだ。
「……フン。やれやれ。あんなに威勢よく飛び出しておいて、最初の一歩がこれか」
僕は自嘲気味に呟き、手にしたスマートフォンの画面を見つめた。
表示されているのは、メグから送られてきた一枚の画像。そこには、ボストンのアパートに残された、僕の部屋の鍵が写っていた。
メッセージは一言。
『ボクも、すぐに行くから』
……すぐ、だと?
ピアノ教室のトラウマを抱え、楽譜すらまともに読めないあの野生児が、このジャズの本場へ辿り着くのがどれほど困難なことか。彼女は分かっているのだろうか。
「ショーン、何を突っ立っている。お前の新しい城は、すぐそこだぞ」
背後から、シュタインの野太い声が響く。
顔を上げると、そこにはパリのジャズ界を象徴する、だが今はただの「老舗の抜け殻」と化したル・マルレ・ジャズ・オーケストラの事務局がそびえ立っていた。
「分かっているさ、ミルヒー。僕に期待しているのは、この死に体の楽団を生き返らせることだろう?」
「期待などしていない。ただ、お前の冷徹なまでの『数学的なジャズ』が、この街の伝統という名のドロドロとした情念にぶつかった時、どんなノイズが生まれるかに興味があるだけだ」
エロジジイの不敵な笑みに背を向け、僕は事務局の重い扉を押し開けた。
そこには、ボストンで僕が率いた「R☆Sビッグバンド」の熱気とは真逆の、冷え切った沈黙が支配していた。
団員たちの視線は冷ややかだ。
二十代の若造。それも、本場ニューヨークを知らぬままボストンで燻っていた「輸入品」の若造。彼らの瞳には、そんな蔑みが露骨に浮かんでいる。
「紹介しよう。今日からこのマルレの常任ディレクターに就任する、ショーン・ハミルトンだ」
シュタインの紹介に、僕はただ黙って会釈をした。
言葉は不要だ。
彼らが僕の価値を認めるかどうかは、僕が提示するスコアの中にしかない。
だが、僕の心は、いまだに大西洋の向こう側を漂っていた。
ボストンに残してきたライアン。キヨラ。マスミ。
そして、メグ。
彼らと共に過ごした時間は、僕にとって救いだった。
飛行機恐怖症という鎖に繋がれ、世界から取り残されていた僕を、音楽という名の翼で空へと押し上げてくれたのは、間違いなく彼らだった。
『キミは、一人で飛べるはずだよ。だって、もうボクのノイズは必要ないくらい、キミの音楽は自由なんだから』
空港でメグが浮かべた、あの残酷なまでに純粋な笑みが蘇る。
自由?
馬鹿を言うな。
彼女という「解体者」が隣にいないこの空間が、これほどまでに息苦しいものだとは、想像すらしていなかった。
僕は、ブリーフケースから一枚の楽譜を取り出した。
それは、ボストンからパリへのフライトの間、僕が一度もペンを止めることなく書き上げた、マルレのための新譜だ。
曲名はまだない。
ただ、そこにはボストンの凍てつく夜と、メグの奏でるフェンダー・ローズの歪んだ音色が、緻密な計算のもとに組み込まれている。
「……諸君。挨拶代わりに、まずはこの音を鳴らしてもらおうか」
僕は、戸惑う団員たちにスコアを配り始めた。
一分、二分。
楽譜に目を通す彼らの表情が、次第に強張っていく。
伝統的なスウィングでも、聞き心地の良いモダン・ジャズでもない。
そこにあるのは、論理と数学が極限まで高められた末に到達した、美しくも残酷な「境界線」の音楽。
「……おい、ボストンの若造。これを本当に俺たちに吹けと言うのか? こんな不協和音の羅列……」
コンサートマスターのトーマス・シモンが、苛立ちを隠さずに声を上げた。
「不協和音? いいえ、それは世界が解体される音ですよ。あなたがたが守ってきた『伝統』という名の古い殻を、内側から破壊するためのね」
僕は冷淡に言い放ち、誰もいないフロントの席を見つめた。
本来なら、そこにメグが座っているはずだった。
彼女が、僕の書いたこの精密な設計図を、その天才的な「耳」と「野性」で完膚なきまでに破壊し、再構築する。
その瞬間に生まれる奇跡こそが、僕の求めていたジャズの正体だった。
だが、彼女はいない。
「……フン。一人でやるしかないか。やれやれ、最初から期待などしていなかったよ」
僕は自嘲を胸にしまい、右手を高く掲げた。
「One, Two. One, Two, Three, Four.」
僕の「指先」が空を切った瞬間、マルレの重苦しい空気は一変した。
暴力的なまでのポリリズム。
凍てつくボストンの風が、パリの街並みを切り裂いていく。
僕は、孤独だった。
だが、その孤独こそが、今の僕には相応しい。
メグ、キミがこの街に辿り着く頃には、僕は誰も追いつけないほどの高みへ行っている。
キミが僕を「キミ」と呼び、僕の作るパスタに喉を鳴らす、その平穏な日々を棄ててでも、僕たちはこの音楽の迷宮を選んだのだから。
僕は、目を閉じて、脳裏に響くメグのピアノを追いかける。
それはもはや呪縛に近い、僕を生かし、僕を苦しめる、世界で一番美しいノイズ。
黄金の残光に包まれたパリの街角で、僕は誓う。
この孤独な旋律が、いつか必ず、キミという「青い衝撃」と再び交差することを。
その時まで、僕は止まらない。
終止符なきインプロビゼーションは、今、始まったばかりなのだ。




