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黄金の残光、あるいは「聖地」を背に受けた漂泊者が、パリの湿った風に溶かす最後の沈黙

パリの街角には、歴史という名の錆びた香りが漂っている。


ボストンの凍てつく冷気が剃刀のように肌を削るものだったとすれば、この街の空気は、湿り気を帯びたベルベットのように、じっとりと僕の肺に絡みついてくる。


シャルル・ド・ゴール空港に降り立ち、不遜な笑みを浮かべるエロジジイ――ハンス・シュタインの背中を追ってタクシーに乗り込んだ僕は、車窓を流れる異国の景色を、ただ無機質な記号として眺めていた。


「……フン。やれやれ。ようやく辿り着いたというのに、感動の一欠片も湧いてこないとはな」


僕は自嘲気味に呟き、膝の上でブリーフケースの取っ手を強く握りしめた。

そこには、僕がボストンで積み上げてきたすべての「理論」と、これからこの街で鳴らすべき「革命」のスコアが詰まっている。


航空機事故。飛行機恐怖症。

十年間、僕をボストンという名の「座標」に縫い止めていた呪縛は、確かに解けた。

だが、その解放感と同時に、僕の胸の奥には、得体の知れない「空白」が広がっていた。


それは、空港のゲートで見送った、あの「R☆Sビッグバンド」の連中の騒がしい声の残響。

そして何より――あの、ゴミ溜めのような部屋でフェンダー・ローズを叩き狂っていた、野生のピアニストの存在だ。


メグ・ポッター。

キミは今、何を考えている?

僕がいなくなったアパートの隣室で、相変わらず三日に一度の入浴で済ませ、世界を解体するような笑みを浮かべているのか。

それとも、あの「死線」を湛えた青い瞳で、僕のいない「座標」を凝視しているのか。


「ショーン。お前の顔、まるで初恋の相手に逃げられたガキみたいだぞ」


隣でシュタインが、下卑た笑い声を上げながら僕の肩を叩いた。

「黙れ、ミルヒー。僕はこれから始まる『ル・マルレ・ジャズ・オーケストラ』の再建について考えているだけだ。お前みたいな野球拳狂いと一緒にしないでくれ」


「カカッ! 言うようになったな。だが忘れるなよ。お前をこのパリへ引きずり込んだのは、この私だ。お前には、伝統という名の老廃物が詰まった『マルレ』を、その冷徹なタクトで解体してもらう」


シュタインの言葉は、時として残酷なまでに真実を突く。

ル・マルレ・ジャズ・オーケストラ。

1875年設立。パリのジャズ界の頂点に君臨しながら、今や慢心と怠慢の澱みに沈む古豪。

そこが、僕に与えられた最初の戦場だ。


タクシーがセーヌ川を越える。

夕刻の陽光が、歴史ある石造りの建物に反射し、街全体を黄金色の残光で包み込んでいた。


その光の中に、僕は不意に、ボストンでの最後の日々を幻視した。

ライアンの荒削りなテナーサックス。マスミの完璧すぎるバックビート。キヨラの、研ぎ澄まされたアルトの咆哮。

彼らと共に鳴らしたあのスウィングは、間違いなく僕の一部だ。

だが、僕はそこへ戻ることはできない。


僕は、バッグの中から一通の絵葉書を取り出した。

それは、メグの両親が住むケープコッドの海辺を描いた、どこか間の抜けたデザイン。

そこには、彼女の悪筆――通称『メグ・フォント』で、たった一行だけ、殴り書きのような言葉が添えられていた。


『キミの作るパスタより、美味しい音楽を、パリで見つけておいてね』


「……ふざけるな。僕のパスタに勝てる音楽なんて、この世に存在しない」


僕は独りごち、葉書を丁寧に仕舞い込んだ。

彼女は、僕を追いかけてくると言った。

幼稚園の先生になるという夢を棄て、僕と同じ、出口のない音楽の迷宮へ足を踏み出すと。


ならば、僕は先に行かなければならない。

キミが辿り着く場所を、キミが絶望するほどの高みにまで引き上げておく。

それが、僕という「完璧主義者」に課せられた、唯一の義務だ。


タクシーが目的地に停まる。

目の前には、重厚な扉を構えた『ル・マルレ』の事務局。

僕は車を降り、パリの空気を深く吸い込んだ。

肺を満たすのは、歴史の重みと、これから始まる戦いの予感。


「……さて。やれやれ。欠陥品同士、新しいゴミ溜めで共鳴するとしようか」


僕は、誰に聞かせるでもなくそう呟くと、迷いのない足取りで扉へと向かった。

背後に広がる黄金の残光は、もはや僕を追いかけることはない。

僕の視界にあるのは、まだ見ぬスコアに書き込まれるべき、青く、歪んだ、圧倒的なブルー・ノートだけだ。


パリの夜が、静かに、だが確実に幕を上げようとしていた。

僕という名の「異物」を迎え入れ、新しいジャズの歴史を塗り替えるために。

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