紺碧の境界線、あるいは「座標」を棄てて飛翔する僕たちが、新世界のスコアに刻む決別のポリリズム
シャルル・ド・ゴール国際空港の入国審査を抜けた瞬間、最初に感じたのは——匂いだった。
ボストンとは違う。もっと古く、もっと湿っていて、しかし確かに音楽的な匂い。
石と、鉄と、百年分の呼吸が染み込んだような空気。
「……パリだ」
「うん。パリだね」
隣でメグが、荷物を引きずりながら静かに言った。空港の天井を見上げ、何かの振動でも感じ取っているような顔をしている。
「何が聴こえる」
「……たくさんの人が、たくさんの言葉で、たくさんの音を出してる。でも——みんな、同じくらい孤独な音がする」
「パリはそういう街だ」
「好き」
僕は短く言いかけて、やめた。好き、か。そういう感覚で音楽の街を語るのは、メグらしい。そしておそらく、それが最も正確な表現でもある。
到着ロビーに出ると、シュタインが派手なシャツ姿で立っていた。右手にシャンパングラス、左手にパンフレット。
「ヘイ、ショーン! メグちゃん! ようこそパリへ! 今夜の宿は決まっているが、まずは腹ごしらえだヨ! ここのカフェのクロワッサンは、あのビルのパスタより旨いぞ!」
「……ビルのパスタを引き合いに出すな。次元が違う」
「あは。シュタインさん、変わってない」
メグはシュタインに向かってひらひらと手を振った。シュタインが破顔し、メグの手を両手で握った。
「やはり君は素晴らしい! その『変わってない』という評価は、この私への最高の賛辞だヨ!」
「お世辞でもなく、褒めてもいませんが」
「細かいことは気にしないヨ!」
僕は溜息をついた。しかし不思議と、その溜息は軽かった。
ローガン空港を出発してから、十時間以上が経っている。途中乱気流があり、僕は三回、シートの肘掛けを折りそうなほど握りしめた。メグは乱気流の中でも眠り続け、着陸の衝撃でようやく目を覚ました。
それでも——僕は降りてきた。
ボストンという「座標」の外に、今、立っている。
「……ショーン」
荷物を受け取りながら、メグが言った。
「ここで何する?」
「ル・マルレ・ジャズ・オーケストラを、解体して、再構築する」
「それって、どんな音になるの?」
「——まだ、分からない」
「あは。それがいい。分かる音は、面白くないから」
彼女は笑い、ケープコッドの塩タフィーを一粒、僕の手に乗せた。
パリの喧騒の中で、それを受け取りながら僕は思った。
「座標」を棄てるとは、どこにも属さなくなることではない。どこにいても、自分が何者であるかを知っていること——その確信を、音楽という言語で表現し続けることだ。
僕には、ギブソンがある。
隣に、壊れた傑作がいる。
それだけで、世界のどこへでも行ける。
出口の扉が開き、パリの冬の空気が一気に流れ込んできた。
冷たい。だが、その冷たさは、ボストンのそれとは質が違う。
これは、始まりの冷たさだ。




