黄金の残光、あるいは「聖地」へ背を向けた僕たちが、霧の向こう側に視た新世界へのマイルストーン
離陸の衝撃が、僕の背骨を心地よく揺さぶる。
機体は大西洋を眼下に捉え、ボストンの凍てつく座標を振り切って加速する。十年前、僕の時間を止めたあの航空機事故の記憶。それは今、この轟音と気圧の変化の中に霧散し、ただの「過去のスコア」へと変わっていた。
「……フン。やれやれ。あんなにあっさりと、この僕が空を飛んでいるなんてな」
僕はシートに深く身を沈め、窓の外に広がる、どこまでも残酷に、そしてどこまでも美しい紺碧の地平を見つめた。隣の席では、ハンス・アクセル・フォン・シュタインが早くもキャビンアテンダントを捕まえ、クラブ「One More Kiss」で披露する予定の新しい野球拳のバリエーションについて熱弁を振るっている。
「ショーン、そんなに眉間に皺を寄せて空を見ていても、音符は降ってこないぞ。ほら、このワインを飲んで、エロい気分に浸れ。パリは、愛とノイズの街だからな」
「結構だ、ミルヒー。僕はこれから始まる『ル・マルレ・ジャズ・オーケストラ』の再建案で忙しいんだ。キミの低俗な遊びに付き合っている暇はない」
僕は冷淡に突き放し、膝の上のブリーフケースから五線譜を取り出した。だが、ペンを走らせる僕の思考の端っこには、どうしても、あのゴミ溜めの聖女の顔がちらついて離れない。
メグ・ポッター。
あの、野生の「ブルー・ノート」を奏でる少女。
搭乗ゲートで僕に投げつけた、あの挑戦的な言葉。
『キミの横で、一番汚いブルー・ノートを叩きつけてあげる』
ふざけた言い草だ。楽譜さえまともに読めない、幼稚園の音楽教師を夢見ていたはずの彼女が、僕という完璧主義者の背中を追うと言うのか。
だが、あの死線のような青い瞳を思い出すたび、僕の論理はわずかに歪む。
彼女は、僕が持っていない何かを持っている。
それは理論という名の檻を破壊し、音楽の本質を剥き出しにする、残酷なまでの純粋さだ。
「……ショーン、何をニヤついている? 気味が悪いぞ。さては、あのタフィー・ベイビーの寝顔でも思い出しているのか?」
「黙れ、エロジジイ。僕はただ、エドワードやキヨラたちのこれからの活動を憂慮していただけだ」
嘘だ。
僕が考えていたのは、ボストンに残してきた「R☆Sビッグバンド」のことでも、キヨラやライアンの将来のことでもない。
ただ、僕がこれから到達しようとしている「譜面の外側」にある景色を、彼女ならどう奏でるだろうか、という一点だけだった。
機内は静寂に包まれていく。
雲を突き抜けた高度一万メートル。ここは、重力も、過去のトラウマも、ボストンの冷気も届かない空白の空間だ。
僕は目を閉じ、頭の中で一小節のジャム・セッションを開始する。
ギブソンのフルアコを抱えた僕の指先が、冷徹なテンション・コードを刻む。それに応えるように、歪んだフェンダー・ローズの音色が、僕の構築した美しさを完膚なきまでに解体していく。
ノイズ。
不協和音。
そして、そこから生まれる、誰も聴いたことのない新しいスウィング。
「……待っているぞ、メグ。キミがその『もじゃもじゃ』な才能を携えて、パリの街を汚しに来る日をな」
僕は小声で独りごちた。
航空機事故、水難事故。僕を縛り付けていたすべての制約は、今この瞬間、完全なる「自由」へと転換された。
それは僕が勝ち取ったものではない。
あのゴミ溜めの部屋で、ローズの音色を聴いたあの瞬間から、僕の運命のメトロノームは狂い、そして正しく動き出したのだ。
パリに着けば、そこにはまた別の地獄が待っているだろう。
伝統と格式に凝り固まった、ル・マルレの頑固者たち。
僕という若造を「ボストンの青二才」と嘲笑うであろう、欧州のジャズ・シーン。
だが、今の僕には恐れるものなど何もない。
飛行機が揺れるたび、僕はむしろ、その振動をポリリズムの変奏として楽しむことさえできる。
窓の外では、夕陽が地平線を黄金色に染め上げていた。
それは、ボストンの「座標」に別れを告げ、未知の聖地へと飛翔する僕たちを祝福する、残光のファンファーレのように見えた。
「さあ、テイクオフだ。メグ、キミも早くこっちへ来い。音楽という名の銀河は、あまりにも広大で、独りで飛ぶには少しだけ、……退屈すぎるからな」
僕はペンを置き、カバンの中に忍ばせていた「ケープコッドの塩タフィー」を一つ、口の中に放り込んだ。
海の香りと、ジャンクな甘さ。
それが僕の喉を通り過ぎる時、確かに僕は、新しいスコアの第一拍を感じ取った。
さらば、ボストン。
僕の時間を止めていた、美しくも残酷な冬の街。
次に会う時は、ゴミ溜めの隣人としてではない。
世界を解体する、二人のジャズ・プレイヤーとしてだ。
僕はシートの背もたれに頭を預け、機体の轟音を子守唄に、短い眠りについた。
夢の中で、マングースが不敵に笑い、ローズのノイズが、パリの夜空を青く塗りつぶしていくのを視たような気がした。




