星霜のジャム・セッション、あるいは「座標」を棄てて飛翔する僕たちが、大西洋の風に刻む決別のポリリズム
搭乗ゲートをくぐる時、足が一瞬止まった。
正直に言えば、止まったどころか、膝が笑っていた。
十年間、この先へは一歩も進めなかった。ローガン国際空港のボーディングブリッジ——ここが、僕という「飛べない鳥」の世界の果てだった。今日まで。
「……ショーン。膝、笑ってる」
隣でメグが、何でもないことのように言った。
「……笑っていない」
「笑ってる。見て、ちょっとカクカクしてる」
「黙れ」
「大丈夫。あたしも初めて飛行機乗った時、おなか壊したから」
「それは全然慰めにならない」
「慰めてないよ。ただの情報提供」
僕は深呼吸をした。搭乗ゲートのスタッフが、笑顔でこちらを見ている。僕の手には、ボーディングパスが皺くちゃになるほど握られていた。
シャルル・ド・ゴール国際空港行き。
目的地:パリ。
ジャズの聖地でも、音楽の墓場でもない。単なる座標だ。だが、飛行機に乗れない僕にとって、その「座標」はこれまで宇宙の彼方と同義だった。
「……ショーン」
メグが、珍しく静かな声で言った。
「怖かったら、あたしの手、掴んでいいよ」
「——要らない」
「そう?」
「……お前の手は冷たいからな」
「あは」
彼女は笑い、先に歩き出した。その小さな背中を見ながら、僕は自分の足が動き出しているのに気づいた。
ボーディングブリッジを渡る。金属の通路が、足音を低く響かせる。
十年前、あの機体が海面に叩きつけられた瞬間の記憶が、不意に浮かびかけた。だが今は——奇妙なことに——それより先に、別の音が鳴った。
メグが昨夜、練習室で弾いたあのコード。理論を持たない、ただ剥き出しの衝動だけで構成されたあの不協和音。
あれが今、僕の恐怖よりも大きく鳴っている。
機体の入り口が見えた。
「……フン。やれやれ」
僕は呟き、足を踏み入れた。
座席に腰を落ち着け、ギターケースを頭上の棚に収める。隣にメグが座り、マングースの着ぐるみの頭部をバッグから取り出して膝に置いた。
「……何を持ってきているんだ」
「ごろ太。飛行機乗るの初めてだから、連れてきてあげた」
「ぬいぐるみに飛行機の初体験をさせる必要はない」
「あはは。ショーンって、ごろ太に嫉妬してる?」
「——していない」
エンジンが低く唸り始めた。
機内アナウンスが流れる。僕はシートベルトを締め、窓の外を見た。ボストンの街並みが、まだそこにある。あの街で、僕は何年も費やした。音楽と格闘し、メグという名のノイズに侵食され、そしてようやく——自分の「座標」を捨てる覚悟を決めた。
「……ショーン」
メグが、静かに言った。
「ボストン、また来られるよ」
「……分かっている」
「でも、帰ってくる場所が変わるかもしれない」
「……どういう意味だ」
「いってきますって言った時と、ただいまって言う時の『ここ』が、違うかもしれないってこと。……それでいい?」
僕は、彼女の顔を見た。
青白い肌。死線のような青い瞳。その瞳が、珍しく、真っすぐに僕を映していた。
「……いい」
機体が、ゆっくりと動き始めた。
大西洋の風に向けて、滑走路へ。
帰ることができない「座標」などというものは、最初から存在しない。僕たちが向かうのは、新しい「ここ」を作るための場所だ。
エンジンが咆哮を上げた。




