氷解のブルー・ノート、あるいは「座標」を棄てて翼を広げた僕たちがボストンの夜に刻む最後のインプロヴィゼーション
ボストンの冬は、僕という人間を徹底的に否定する。
だが、今夜だけは違う。
サヨナラ公演の熱狂が冷めやらぬサントリーホール……いや、ボストンの街並みが、不思議と親密な体温を持って僕を包んでいた。
ライジング・スター(R☆S)ジャズ・オーケストラ。
僕がこの街で、絶望という名のヘドロの中から掬い上げた最高のノイズたちが、今、それぞれの帰路につこうとしている。
「……ショーン」
背後から声をかけてきたのは、ライアン・ミラーだった。
テナーサックスを抱え、普段の傲慢なまでの自信を少しだけ影に潜めた、このバンドの心臓。
「……行ってしまうんだな。ニューヨークでも、ましてやシカゴでもない。あんな遠い場所へ」
「……フン。やれやれ。今更何を言っているんだ。僕の役割は、ここにある譜面をすべて音に変えてしまったことで終わったはずだ」
僕は、冷たく突き放すように言った。
だが、その実、僕の指先はまだ彼らと奏でたポリリズムの残像を覚えている。
あのアフロのドラマー、マスミが刻んだ精密なビート。
キヨラのアルトサックスが描いた、凛とした旋律。
それらすべてが、僕という「欠陥品」を、束の間だけでも完璧な音楽へと変えてくれたのだから。
「……あんたの書いたアレンジ、最高だったよ。あれを吹き続けられるなら、俺はこの街で、一生スウィングしてやるさ」
ライアンは、僕の手を強く握った。
それは、言葉以上に饒舌な、音楽家同士の誓いだった。
僕は、彼らにこの場所を預けることにした。
僕が去っても、彼らが鳴らす音があれば、ボストンのジャズは死なない。
ライアンたちと別れ、僕は一人、凍てつく裏通りを歩く。
足元には、降り積もった雪。
かつての僕なら、この一歩さえも「座標」の重みに耐えかねて踏み出せなかっただろう。
十年前の空の記憶。水底の恐怖。
それらが、嘘のように消えていた。
いや、消えたのではない。
メグという名の「ノイズ」が、それらすべてを強引に調律し直してしまったのだ。
アパートへ戻ると、廊下には耐え難い悪臭……ではなく、どこか懐かしい「ケープコッドの塩タフィー」の甘い香りが漂っていた。
「……あは。……おかえり。……ショーン」
扉の前で、メグ・ポッターが丸まっていた。
マングースの着ぐるみではなく、どこか心細そうな、ただの少女の姿で。
「……どうした。キミの部屋は隣だろう。それとも、また鍵をゴミの山の中に埋めたのか?」
「……ううん。……キミの……音が、……まだ、……廊下に……残ってたから。……それを……集めて、……宇宙の……塵に……して……あげようと思って」
彼女は、青白い顔を上げ、吸い込まれるような青い瞳で僕を見つめた。
その瞳の奥には、僕がこれから向かう、遠い大陸の空が映っているような気がした。
「……ショーン。……アタシ、……決めたよ」
「……何をだ。明日から毎日風呂に入る決意か?」
「……違うよ。……アタシ、……キミの……隣で、……ピアノを……弾くために、……『本気』に、……なる。……もう、……幼稚園の……先生、……おしまい」
彼女の言葉は、静かだった。
だが、それはどんなに激しい不協和音よりも重く、僕の胸を叩いた。
彼女が、その野生の才能を「誰かのため」に、あるいは「一つの場所」を目指すために使い始めるということ。
それは、僕にとって、最高に幸福で、最高に恐ろしい挑戦状だった。
「……フン。やれやれ。僕の隣が、どれほど過酷なテンション・コードで満ちているか、理解しているのか」
「……知ってる。……壊れてる。……だから、……アタシが、……全部、……スウィングさせて……あげる」
彼女は、無邪気に世界を解体するような笑みを浮かべた。
僕は、そんな彼女を抱き寄せる代わりに、ただ静かにアパートの鍵を開けた。
「……腹が減った。キミの決意が本物なら、最後くらいはまともな食事を振る舞ってやってもいい。……ハミルトン特製の、な」
「……わーい。……接続、……成功だね」
二人の影が、狭いアパートの廊下に伸びる。
明日、僕は飛行機に乗る。
あの忌まわしい鉄の塊に乗って、空を越え、海を越える。
もう、足元を見る必要はない。
僕の横には、世界を狂わせる最高の「ノイズ」がいる。
そして僕の胸には、新しいスコアを刻むための、力強いポリリズムが鳴り響いている。
ボストンの冬は、僕という人間を突き放した。
だが、その寒さがあったからこそ、僕は見つけることができたのだ。
凍土の下で静かに、だが烈火のごとく燃え上がる、僕たちだけのブルー・ノートを。
夜の底に、新しい朝の気配が満ちている。
僕の旅は、ここから加速する。
メグという名の共鳴者を、その中心に据えて。




