残響のパララックス、あるいは「座標」を譲り渡した僕が鏡の向こう側に見た、遠い青の煌めき
ボストンの冬は、僕という人間を突き放す。
サヨナラ公演の幕が閉じた後の、この奇妙な静寂。
鳴り止まない拍手の残響が、耳の奥でまだ熱を帯びている。
R☆Sジャズ・オーケストラ。
僕がボストンという「座標」に縛り付けられていた絶望の最中に生み出したこのバンドは、今、僕の手を離れて一つの生命体として完成した。
最後の一音をギターで奏で、ステージから去る際、僕は振り返らなかった。
いや、振り返ることができなかったのだ。
テナーサックスを掲げて咆哮するライアン。アフロを揺らして泣き笑いするマスミ。
彼らの顔を見れば、僕の中に残っていた「去ることへの躊躇い」が露呈してしまいそうだったから。
楽屋へ続く廊下の冷気は、成功の余韻を容赦なく削ぎ落としていく。
そこには、僕を欧州へと引き抜いた張本人、テオ・ベルナールが待ち構えていた。
「素晴らしい。これで、パリの気難し屋たちを黙らせる準備が整いましたね」
事務的な、だが期待に満ちたその声が、僕の未来がもはやこの場所にないことを告げている。
僕は、壁に立てかけたギブソンのケースに手をかけ、ふと視線を感じて足を止めた。
廊下の隅。
影に溶けるようにして立っていたのは、メグ・ポッターだった。
「……ショーン。……今、キミは、……光速を超えて、……アンドロメダの……外側まで、……行っちゃったんだね」
メグの声は、いつもの無邪気な解体者のそれとは違っていた。
死線のような青い瞳。
その奥に宿っているのは、吸い込まれるような孤独と、そして、僕が今まで見たこともないほど鋭利な「音楽への飢え」だった。
彼女は、僕がこのステージで鳴らした音楽の「遠さ」を、誰よりも正確に聴き取っていた。
僕が自由を手に入れ、空を飛び、彼女の届かない高みへと駆け上がっていくことを、彼女の「耳」は残酷なまでに理解してしまったのだ。
「……フン。やれやれ。アンドロメダだか何だか知らないが、僕はただ、次のステージへ行くだけだ」
僕はわざと冷笑的に答え、彼女の隣を通り過ぎようとした。
だが、その刹那。
メグが僕のジャケットの裾を、指先だけで微かに掴んだ。
「……待ってて。……ショーン。……アタシも、……ワープの……エンジン、……今、……火をつけたから」
「……」
「……キミが、……パリの……古い……ノイズに、……飲み込まれる前に。……アタシが、……全部、……書き換えてあげる」
その瞳に宿る熱。
それは、かつて僕が彼女のゴミ溜めの部屋で初めて聴いた、あの壊れたピアノの音と同じ、純粋な暴力だった。
彼女は、見送るだけの存在でいることを拒絶したのだ。
僕と同じ座標に辿り着くために、彼女は今、自分を縛っていた「音楽は楽しむもの」という心地よい檻を、自ら内側から壊そうとしている。
「……期待せずに待っているよ。せいぜい、ハリセンの折り畳んだ楽譜束で叩き潰されないようにな」
僕は彼女の手を解き、真っ直ぐに歩き出した。
背後で、メグが小さく「あは」と笑う気配がした。
外に出ると、ボストンの夜空には星が突き刺すように輝いていた。
僕たちは、バラバラの場所へ向かう。
ライアンはボストンに残り、このバンドを「永遠のスウィング」に変えるために走り続ける。
僕はパリへ飛び、伝統という名の氷壁を解体するためにタクト(采配)を振るう。
そしてメグは――。
足元を縛っていた座標は、もうない。
僕の耳には、遠い欧州の空から聞こえてくる、まだ見ぬオーケストラの不協和音が聞こえている。
そしてその中には、いずれ必ず混入してくるであろう、一人の天才ピアニストによる、究極の「ノイズ」の予感も。
僕は誰に言うでもなく呟き、凍てつく街の雑踏へと消えていった。
ポケットの中で、次に演奏すべきスコアの、まだ埋まっていない空白の小節が熱を持っている。
パリ。そこには、伝統という名の錆びた檻に閉じ込められた、飢えた獣たちが待っているはずだ。
「……待っていろよ」
吐き出した白い息は、すぐに夜の闇に溶けて消えた。
だが、僕の指先には、次にギターの弦を弾くべき、確かな抵抗感が残っている。
感傷に浸る時間は、一拍だって残っていない。
新しいスコアを、僕の血で書き換える時間は、もう始まっているのだから。




