氷下の即興曲、あるいは「座標」を喪失した僕たちが極北の風に刻む最後の一音
ボストンの凍てつく冬が、遠い記憶の残滓のように思えるほど、北海道の寒気は純粋な「暴力」だった。
だが、その暴力こそが、今の僕には心地よい。
機体の窓から見下ろした白銀の原野。成層圏の青を撃ち抜いた咆哮の余韻。
僕は今、十年間自分を縫い止めていた「座標」を喪失し、未知なる自由の只中に放り出されている。
新千歳空港から、ライアンの実家のツテで借りたポンコツのSUVを走らせること数時間。
視界のすべてを覆い尽くす白。
その静寂を切り裂くように、ライアン・ミラーが助手席でテナーサックスのリードを湿らせている。
「……あは。……ショーン。……今、キミの『呼吸』が、……雪の結晶と、……セッションしてる」
後部座席から、温度を排した、だが残酷なまでに本質を射抜く声が響く。
メグ・ポッター。
マングースの着ぐるみを膝に乗せ、死線のような青い瞳を窓の外へと向けている彼女は、この極寒の地にあっても、何一つ変わることがない。
彼女は、場所(座標)に依存しない音楽そのものだ。
僕たちが辿り着いたのは、一面の雪原にポツンと佇む、巨大な牛舎だった。
そこには、僕が組織した「R☆Sジャズ・オーケストラ」の合宿という名目にはあまりに不釣り合いな、剥き出しの生命の律動が溢れていた。
「よう、ショーン! 遅かったじゃねえか!」
牛舎の重い扉を開けると、アフロヘアーを凍らせたマスミがドラムセットの影から顔を出した。
ローズも、自分の身長より巨大なウッドベースを抱え、白い息を吐きながら微笑んでいる。
そこにあるのは、バークリーの洗練されたラウンジでも、ブルーノート・ボストンの格式高いステージでもない。
牛たちの体温と、干草の匂いと、そして、凍結した大気を強引に震わせようとする、無骨なジャズの萌芽だった。
僕はギブソンのフルアコを手に取り、牛舎の隅に置かれた、調律の狂ったアップライトピアノの前に座るメグを見た。
「……始めるぞ。欠陥品同士、この極北のゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」
僕の冷笑的な言葉に、メグは無邪気に世界を解体するような笑みを浮かべた。
「……あは。……いいよ。……キミの、……凍った論理を、……アタシが、……全部、……溶かしてあげる」
その瞬間。
メグの指が、鍵盤を「破壊」した。
奏でられたのは、スタンダード・ナンバー『Autumn Leaves(枯葉)』。
だが、それは僕が知るどの譜面とも異なっていた。
ボストンの秋を懐かしむような甘美さは微塵もない。
そこにあるのは、枯れ果てた葉が氷の下で叫び、春を待つのではなく「冬を食い殺そうとする」ような、凄惨なまでのバイタリティ。
メグ・ポッターという野生の天才。
彼女のサヴァン的な耳は、調律の狂ったピアノの不協和音さえも、新しいテンション・コードとして取り込み、再構築していく。
ライアンのサックスが、その咆哮に応えるようにフラジオを響かせた。
マスミのドラムが、牛たちの足踏みと同期し、暴力的なポリリズムを形成する。
僕は、その中心で、アンサンブルを統合しようとした。
だが、できない。
論理が通用しない。
ジャズは数学だ。僕はそう信じてきた。
だが、この北の果ての牛舎で鳴っているのは、数式では解けない「生命の端数」そのものだった。
「……っ……!」
指先が震える。
十年前の事故の記憶。沈みゆく船。墜落する機体。
その恐怖が、不協和音となって僕を襲う。
だが、その時だ。
メグが、僕を見た。
青い瞳の奥に、吸い込まれるような深淵。
「……聴いて。……ショーン。……キミの『恐怖』も、……今、……ブルーノートになって、……跳ねてるよ」
彼女の言葉が、僕の脳内にある最後の「安全装置」を吹き飛ばした。
僕は、譜面を捨てた。
完璧なアレンジを捨てた。
ただ、自分を縛り付けていたすべての鎖を、この一音に乗せて吐き出すために、ギターの弦を掻き鳴らした。
音が、色を変えた。
凍てついた空気の中で、僕のギターが黄金の閃光を放つ。
論理を超えた先にある、真実のインプロヴィゼーション。
牛たちが一斉に鳴き、雪崩のようなグルーヴが牛舎を飲み込んでいく。
それは、かつて僕が憧れた巨匠ヴァレンティが鳴らしていた、あの「魂を奪う音」の正体だった。
――夜が明ける。
どれほどの間、僕たちが音を重ねていたのかは分からない。
気がつくと、牛舎の隙間から、極北の鋭い朝日が差し込んでいた。
メンバーたちは、楽器を抱えたまま、満足げに干草の上に倒れ込んでいる。
僕もまた、ギターを置き、自分の手が驚くほど熱を持っていることを知った。
「……ショーン。……見た? ……空が、……キミの音に、……降参したよ」
メグが、隣で僕の袖を掴んでいた。
その顔には、相変わらず掴み所のない、だがどこか誇らしげな笑みが浮かんでいる。
「……ああ。ボストン(あそこ)では決して鳴らせない音が、今、ここで鳴った気がする」
僕は、スマホを取り出した。
画面には、ボストンの音大の事務局から、執拗なまでの着信履歴とメールが届いている。
僕が「座標」を捨て、許可なくこの地へ飛んだことへの叱責。
だが、そんなものはもう、僕を繋ぎ止める鎖にはなり得ない。
僕は、メールの返信を作成した。
宛先は、僕の師であり、最悪のエロジジイでもあるシュタイン(ミルヒー)だ。
『ボストンの冬はもう飽きました。僕はこれから、もっと広い場所へ、僕にしか鳴らせないスウィングを探しに行きます』
送信ボタンを押す。
その瞬間、僕の中にあった「最後の一片の重力」が消えた。
「……行こう、メグ。ボストンへ戻り、そして……ニューヨーク、欧州へ」
「……あは。……いいよ。……どこまでも、……キミの、……パスタの匂いを、……追いかけていくから」
彼女は、静かに、だが残酷なまでの純粋さで僕に「接続」を誓った。
外に出ると、世界は目も眩むような白に包まれていた。
だが、僕の瞳には、その白の向こう側にある、多様な色彩のジャズが見えていた。
座標を喪失した僕たちは、もう、何処にでも行ける。
僕はSUVのエンジンをかけた。
極北の風が、僕の頬を叩く。
それは、昨日という名の残像を完全に瓦礫へと変え、新しい時代の幕を開けるための、最高にヒップで、そして容赦のない、始まりのファンファーレだった。




