黄金の咆哮、あるいは「座標」を喪失した僕たちが極北の空で初めて自由を定義するための聖戦
ボストンの冬は、徹底して僕たちを否定する。
だが、今、僕の眼下に広がる白銀の世界は、それ以上に冷徹で、そして剥き出しの「真実」を突きつけていた。
マサチューセッツ州、ボストン・ローガン国際空港。
そこは僕にとって、十年間、越えることの叶わなかった絶望の国境線だった。
だが、今、僕は機体の窓に額を押し当て、重力という名の呪縛を振り解いた機体が、成層圏へと突き進む振動を全身で受け止めている。
隣には、阿呆面を下げて機内食のナッツを咀嚼する、ライアン・ミラー。
そして背後の座席には、マングースのぬいぐるみを抱きしめ、死線のような青い瞳を虚空に向けているメグ・ポッター。
「……ショーン。見て。……雲が、……マシュマロの死骸みたい」
メグが、感情を排した声で囁く。
その青白い指先が僕の腕に触れた瞬間、脳内にこびりついていた「墜落の残像」が、一瞬でジャズ・スタンダードのポリリズムへと解体されていく。
彼女は、僕という壊れた楽器を調律する、唯一の調律師だった。
僕たちは今、北へ向かっている。
行き先は北海道。
日本という極東の地で、僕をこの「座標」から解き放つための最後の儀式が行われようとしていた。
新千歳空港に降り立った瞬間、肺に流れ込んできた空気は、ボストンのそれよりも鋭利な刃物だった。
すべてを凍結させ、思考さえも結晶化させる冷気。
「……っ……。本当に、来たんだな。ニューヨークでもパリでもない、こんな北の果てに」
僕は、震える指先で自分の喉を確かめた。
十年間、僕を縛り付けていた航空機事故のトラウマ。
メグが施した「催眠」という名の不確かな魔法が、今、現実の空を撃ち抜いたのだ。
僕は、飛べる。僕は、この座標を脱出したのだ。
「……あは。……ショーン。……今、キミの『恐怖』が、……雪に溶けて、……消えちゃった」
メグが、無邪気に世界を解体するような笑みを浮かべる。
彼女にとっては、この極寒の地も、僕のアパートのゴミ溜めも、同じ「接続」の場所に過ぎないのだろう。
僕たちは、ライアンの実家のツテで手配したレンタカーに乗り込み、真っ白な平原を突き進んだ。
目指すは、広大な雪原のど真ん中に鎮座する、ある農場だ。
「おい、ショーン! 見ろよ、あの牛! デカいぜ、ジョン・コルトレーンのソロくらい太い音が出そうだ!」
ライアンが、テナーサックスを吹く真似をしながら騒ぎ立てる。
相変わらずの自己陶酔型。だが、この男の底抜けの明るさが、僕の完璧主義という名の檻を、わずかに緩めてくれるのも事実だった。
到着した場所は、一面の銀世界に囲まれた、静謐な農場だった。
そこで僕を待っていたのは、ボストンの音大で共に「S・ビッグバンド」を作り上げた、かつての戦友たち……ではない。
そこにあるのは、剥き出しの生命の律動だった。
僕たちは、極寒の牛舎の中で、即興演奏を始めた。
ライアンのサックスが、冷気を切り裂くようなフラジオを響かせる。
メグが、どこから持ってきたのか、古いアップライトピアノの鍵盤を、ローズのように歪んだ感性で叩き始める。
僕は、ギブソンのフルアコを抱え、その「音の奔流」を統率しようと試みた。
だが。
「……違う」
僕の指先から溢れ出す音は、あまりにも精密すぎて、この大自然の咆哮の前では無力だった。
ジャズは数学だ。論理だ。僕はそう公言してきた。
だが、この北の果ての静寂は、僕の「論理」を、ただの虚飾として剥ぎ取っていく。
「……ショーン。……足りないよ。……キミの、……絶望の、……底にある、……青い炎」
メグが、ピアノを弾きながら、僕の魂を射抜くような言葉を投げかける。
玖渚友のような、静謐さと残酷なまでの純粋さ。
彼女は、僕がこの十年間にわたって築き上げてきた、エリート学生という名の仮面を、完膚なきまでに破壊しようとしていた。
僕は、目を閉じた。
成層圏で感じた、あの圧倒的な解放感。
自分が「座標」という名の牢獄の一部であったことを認めた瞬間の、あの清々しい敗北感。
僕は、コードを捨てた。
論理を捨てた。
ただ、この極北の空に、自分という存在が今、ここに「在る」ことの証明として、弦を掻き鳴らした。
――黄金の咆哮。
それは、完璧主義のショーン・ハミルトンが、初めて自分の「欠陥」を肯定し、音楽へと昇華させた瞬間だった。
ライアンのサックスが共鳴し、メグのピアノが狂喜乱舞する。
牛舎の牛たちが、そのリズムに合わせて一斉に声を上げた。
音楽が、大気を震わせ、雪を溶かし、僕たちの足元にある大地を揺らす。
ここには、バークリーの尖ったポリリズムも、ボストンの伝統的な退屈さも存在しない。
ただ、昨日を撃ち抜き、今日を生き抜くための、剥き出しの「青」があるだけだ。
セッションが終わった後、僕たちは雪原の上に寝転んでいた。
冷たさは感じない。
ただ、自分の心臓が、今までになく激しく、正しく脈打っているのを感じていた。
「……やれやれ。欠陥品同士、こんな北の果てで共鳴し合うとはな」
僕は、空を見上げた。
そこには、僕たちが今しがた撃ち抜いたばかりの、無限の宇宙が広がっていた。
「……ショーン。……これからは、……どこへでも行ける。……キミが、……望むなら」
メグが、僕の影を正確に踏みながら、静かに言った。
彼女の瞳には、かつてのトラウマも、未来への不安も宿っていない。
ただ、僕という存在への、絶対的な「接続」の意志だけが、そこにあった。
「……ああ。どこへでも行くさ。ボストンも、ニューヨークも、パリも……僕にとっては、もう、ただの五線譜の上の記号に過ぎない」
僕は、航空券を雪の中に放り投げた。
それは、僕を縛り付けていた過去への葬送であり、同時に、自分自身の足で歩み始めるための、最高にヒップな儀式だった。
ボストンの冬は、まだ終わらない。
だが、僕の胸の中には、この極北の空で手に入れた、黄金の残り火が灯っている。
これから始まる、終わりなきツアー。
僕とメグ、そしてこの愛すべき変人たちの、本当のセッションは、まだ始まったばかりだ。
黎明の光が、白銀の世界を青く染めていく。
それは、僕たちが「昨日」という名の残像を完全に葬り去り、新しい時代を刻み始めるための、最高にクールで、そして残酷なまでに美しい、始まりのファンファーレだった。




