紺碧の成層圏を撃ち抜く咆哮、あるいは「座標」という名の牢獄を瓦礫に変えるための離陸
チャールズ川を縁取る氷の破片が、冬の低い陽光を反射して、まるで割れたレコード盤のように鋭い光を放っている。
その光は、僕――ショーン・ハミルトンの網膜を、赦しを乞う間もなく焼き切ろうとしていた。
僕を十年間、この「ボストン」という狭苦しい座標に縫い付けていた見えない鎖。
航空機事故の記憶。
気圧の変化が引き起こす、肺の底からせり上がる恐怖。
閉じられた機内という密室。
逃げ場のない高度一万メートル。
だが、今、僕の手の中には、一枚のボーディングパスが握られている。
目的地:シャルル・ド・ゴール国際空港。
「……キミ」
隣から響く、温度を欠いた、だが残酷なまでに本質を射抜く声。
メグ・ポッター。
「手、震えてる」
「震えていない」
「震えてる。見て」
「見なくていい」
「ショーン」
「うるさい」
「怖い?」
僕は答えなかった。
答えられなかった、というのが正確だ。
怖い。
当然、怖い。
十年間、一度も乗れなかった。ニューヨークへも、ロンドンへも、ウィーンへも行けなかった。飛行機という乗り物が、僕の音楽の半径を、このボストンという狭い円の内側に永遠に閉じ込めてきた。
それが、今、ここにある。
搭乗ゲートが、目の前に。
「ショーン」
メグが、僕の手に、自分の手を重ねた。
冷たかった。いつも冷たい手だ。しかし、その冷たさは不思議と、今の僕の震えを落ち着かせた。
「私も怖いよ」
「……お前が怖いものなど、何もないだろう」
「ある。ショーンのいないところで、一人で音楽をすること。それが一番怖い」
僕は、彼女の横顔を見た。
青白い肌。死線のような青い瞳。その瞳が、搭乗ゲートの向こう、まだ見ぬ空を真っ直ぐに見つめていた。
「……行こう、ショーン」
「……」
「キミが飛べないなら、私が引っ張る。私が迷子になったら、キミが引き戻す。それだけのことだよ」
それだけのことだよ、と彼女は言った。
そのあまりにも簡単な言葉が、十年間僕が抱えてきたものを、一瞬だけ軽くした。
「……行くぞ」
「うん」
「ただし、機内では騒ぐな。シートベルトは必ず締めろ。気圧が変わっても、騒ぐな。着陸まで、余計なことを言うな」
「はーい」
「返事が軽い」
「はい、ショーン様」
「……その呼び方もやめろ」
搭乗ゲートを抜ける。
ボーディングブリッジを渡る。
足の裏から、機体の振動が伝わってくる。
機内に入った瞬間、呼吸が浅くなった。
予想していた。それでも、実際に体が反応するのを止められなかった。肺が収縮する。視界の端が暗くなる。十年前の轟音が、脳の奥底から這い上がってくる。
「ショーン」
メグが、僕の手を強く握った。
「聴こえる?」
「……何が」
「エンジンの音。……すごく規則正しいリズムを刻んでる。4/4拍子じゃなくて、もっと複雑な。でも、ちゃんと、繰り返してる。……壊れてない」
「……」
「壊れてないから、大丈夫だよ」
僕は、目を閉じた。
エンジンの音に、意識を向けた。
メグの言う通り、それは確かに、規則正しいリズムを刻んでいた。設計された通りに、計算された通りに、寸分の狂いもなく、繰り返していた。
音楽でいえば、完璧なオスティナートだ。
「……ショーン」
「何だ」
「私、ずっと思ってたことがある」
「今じゃなくていい」
「今がいい。……キミが飛行機を怖がるのは、あの事故で、音が壊れたからだと思う。爆発音とか、悲鳴とか、気圧の変化とか。そういう、壊れた音が、キミの体に刻まれてるんだよ」
「……」
「だから、今日は、私が新しい音を刻む。エンジンの音と、私の声と、キミの呼吸の音。それだけを聴いて」
僕は、彼女の手を握り返した。
機体が、ゆっくりと動き始めた。
滑走路を走る。
速度が上がる。
体が、シートに押しつけられる。
あの感覚が、蘇りかける。
しかし。
メグが、低い声で、何かを歌い始めた。
歌というより、音だった。譜面のない、理論のない、ただ今この瞬間のための音。
それは、僕が初めて彼女のRhodesを聴いた夜に似ていた。
壊れた傑作だけが持つ、不気味な輝き。
機体が、地面を離れた。
僕は、目を開けた。
窓の外、ボストンの街並みが、急速に小さくなっていく。
チャールズ川が、銀色の線になる。
バークリーの赤煉瓦が、点になる。
あのゴミ溜めのような練習室が。
ライアンとマスミとローズが。
シュタインが。
ロバート教授が。
ハリセンが。
全部、点になって、霞んで、消えていく。
雲に入った。
白い闇の中を、機体は突き進んだ。
そして、雲を抜けた。
そこには。
見たことのないような、暴力的なまでの「青」が広がっていた。
地平線の果てまで、どこまでも続く、紺碧の空。
雲の海が、眼下に広がっている。




