泥濘のポリリズム、あるいは「座標」に縫い止められた僕がゴミ溜めの底で遭遇した壊れた青い傑作
ボストンの冬は、僕という人間を徹底的に否定する。
伝統と革新がぶつかり合うこの街は、今や僕にとって、世界で最も精緻な「牢獄」へと変貌していた。
伝説のピアニスト、マックス・ハミルトンを父に持つサラブレッド。S・ビッグバンドの元リーダー。バークリーの正規課程を離れ、今は音楽との向き合い方そのものを問い直している、自称「音楽の解体者」。
周囲は僕をそう呼ぶが、その実態は、十年前の航空機事故という名の「トラウマ」に縛り付けられ、ジャズの聖地ニューヨークへすらまともに辿り着けなかった、羽の折れた渡り鳥に過ぎない。そして今、ようやくその鎖を断ち切り、パリへと向かおうとしている。
「……やれやれ。結局、何も変わっていない」
凍てつく冷気を肺に吸い込み、僕は自嘲気味に呟いた。
昨日——あるいはこの数週間で——僕は確かに何かを得た。ガラクタ同然と思っていた連中の音が、僕の理論を超えた瞬間があった。メグという名の野生が、僕のスコアを解体して、その先に新しい宇宙を見せた。
それは本物だった。
しかし今夜、僕はまた一人、この部屋に帰ってきた。
外の音が消えると、いつも同じ問いが戻ってくる。
——僕の音は、本当に変わったのか。
自暴自棄というほどではない。だが、積み上げてきたものが砂でできた城のように感じられる夜がある。今夜がそれだった。
廊下に出ると、隣室からローズの音が漏れていた。
メグだ。深夜に一人で弾いている。
それはいつもと変わらない。しかし今夜は——何かが違う気がして、僕は足を止めた。
扉を叩く。返事はない。ノブを回すと、鍵がかかっていなかった。
「……メグ」
足の踏み場もないゴミの山。耐え難い悪臭。それを塗り潰すような、ローズの圧倒的な旋律。
彼女は振り返らなかった。ただ、鍵盤と向き合い、その指先から音を溢れさせ続けていた。
「……ショーン。来たんだ」
「……お前、今日の練習の後から、ずっとここで弾いているのか」
「うん。ちょっと、整理したいことがあって」
「お前が整理?」
それは意外だった。メグが「整理」という言葉を使うのを、僕はほとんど聞いたことがない。
「……何を整理している」
彼女は少し間を置き、それから言った。
「ショーン。キミは、今日の僕たちの音、どう聴こえた?」
「——正直に言う。まだ足りない」
「そうだね」
「しかし、先週より確実に近づいている」
「……うん」
メグが初めて、手を止めた。振り返り、珍しく神妙な顔で僕を見た。
「ショーン。私、ちゃんとキミの役に立ててる?」
その問いに、僕は一瞬、言葉を失った。
——あのメグ・ポッターが、そんなことを聞くのか。
「……何があった」
「ハリセンに言われた。『お前の音は自由すぎてアンサンブルを壊す』って」
「ハリセンの言葉など気にするな。あの男は——」
「でも、否定できなかった。キミのスコアから外れてること、私、分かってる。それが良いと思ってやってるけど……本当にそうなのか、今日は分からなくなった」
ゴミ溜めの底で、彼女は正直に迷っていた。
僕は、ゆっくりと部屋に入り、ローズの隣に腰を下ろした。
「……いいか、メグ。お前がスコアから外れることで壊れる音は、最初から壊れていたんだ。お前の音は、僕の設計図の欠陥を暴く。それが痛くても——それがなければ、僕は成長しない」
「……本当に?」
「本当だ。ただし——」
「ただし?」
「お前が迷っている音は、最悪だ。迷わずに外れろ。それがお前の役割だ」
沈黙。
それから、メグはふっと肩の力を抜き、いつもの笑顔を取り戻した。
「……あは。ショーン、褒め方が最悪」
「事実を言っているだけだ」
「でも——ありがと」
彼女は再び鍵盤に向かい、先ほどより少しだけ、軽い音で弾き始めた。
僕はその隣で、ギブソンを手に取り、彼女の音に応えるコードを探した。
ゴミ溜めの深夜。しかしここには確かに、世界で最も密度の高い「接続」がある。明日、僕たちはこの街を発つ。パリへ。だが今夜は、まだここにいる。このボストンの底で、最後に一度だけ、二人だけの音楽を鳴らすために。それだけが、変わっていない。




