凍てつく青の境界線、あるいは僕たちが昨日を脱ぎ捨てて「飛べない空」を見上げるための即興
ボストンの冬は、死を予感させるほどに透明だ。
チャールズ川の表面は鋭い氷に閉ざされ、街全体が巨大な冷凍庫の中に放り込まれたような錯覚に陥る。バークリー音楽大学の校舎から漏れる管楽器の咆哮さえも、この冷気の中では一瞬で結晶化して砕け散ってしまうのではないか。そんな錯覚さえ抱かせるほど、二月の風は刺すように冷たい。
だが、僕――ショーン・ハミルトンの胸中を吹き抜ける風は、それよりも遥かに寒々しいものだった。
「……あは。ショーン。……また、そうやって譜面の海に溺れてる」
アパートの隣室から、あるいはゴミの山の中から這い出してきたような、温度を欠いた声。
メグ・ポッターだ。
彼女は、僕のアパートの床に無造作に転がされた『スペース・ごろ太』のフィギュアを弄びながら、死線のような青い瞳で僕を射抜いていた。
今日、僕を縛り付けていた座標が、物理的に引き千切られようとしていた。
ハンス・シュタイン――あのミルヒーが、ボストンを去る。
それは、僕にとっての唯一の導き手が消えることを意味し、同時に、僕がこの「飛べない地」に一人取り残されることを確定させる儀式でもあった。
「……メグ。どいてくれ。僕は、これからハミルトン家の人間として、正装をして見送りに行かなきゃならないんだ」
「……正装。……あは。……キミは、自分を綺麗な箱に詰め込んで、どこへ発送するつもり?……翼が凍りついた鳥は、箱の中でも、……空を飛ぶ夢を見て死ぬだけだよ?」
彼女の言葉は、いつも残酷なまでに本質を突く。
十年前の航空機事故。あの墜落の瞬間に僕が失ったのは、移動の自由だけではない。
「世界」という名のキャンバスを、自らのタクト――否、ペンと情熱で塗り替える権利そのものを、僕はあの雲の中に置いてきてしまったのだ。
僕は、無言で彼女の横を通り過ぎ、鏡の前でタイを締め直す。
完璧主義。
それが僕の武装であり、唯一の防壁だ。
論理と数学で構築されたジャズこそが、僕のアイデンティティだと言い聞かせてきた。
だが、その防壁は、彼女が Fender Rhodes の鍵盤に触れた瞬間に、いつも砂の城のように崩れ去る。
「……ショーン。……ミルヒー、言ってたよ。……キミは、……もう自分の音を持ってるって」
「……あいつの戯言を真に受けるな」
僕は吐き捨て、部屋を飛び出した。
空港へ向かうための車に乗り込む。
だが、空港という場所そのものが、僕にとっては巨大な処刑場に等しい。
重度の飛行機恐怖症。
ターミナルの看板を見るだけで、胃の底から酸がせり上がり、呼吸は浅くなり、視界が明滅する。
空港のVIPラウンジには、既にミルヒーがいた。
相変わらず、高級な酒を煽りながら、美人のグランドスタッフにセクハラまがいの冗談を飛ばしている。
だが、僕の姿を認めると、その老いた瞳に一瞬だけ、鋭いインプレサリオ(興行師)の光が宿った。
「……ショーン。君はまだ、その小さな『籠』の中で指揮を振るつもりか?」
「……。僕は、ここでやれることをやるだけです」
「……ふん。君に足りないのは譜面の読み方ではない。……譜面を破り捨て、その向こう側にある『自由』という名の絶望に飛び込む勇気だ」
ミルヒーは、僕に一枚のチケットを差し出した。
パリへの直行便。
僕にとっては、死刑宣告書に他ならない。
「……無理だ。……僕は、乗れない」
「……だろうな。……だが、覚えておけ。……音楽は、君をどこへでも連れて行ってくれる。……たとえ、君の身体がこの大地に縫い付けられていたとしてもな」
彼は、最後の一杯を飲み干すと、軽やかな足取りでゲートへと消えていった。
あとに残されたのは、圧倒的な静寂と、僕の足元で渦巻く無力感だけだった。
帰り道。
僕は、ボストンの街並みを走る車の中で、震える手でチケットを握り潰した。
情けない。
世界的なジャズ・ピアニストを父に持ち、サラブレッドとして育てられながら、僕はニューヨークへすら、一時間足らずの距離ですら、移動することができない。
座標に縛られた、ただのエリート学生。
それが僕の正体だ。
アパートに戻ると、廊下にはメグが立っていた。
彼女は、僕が戻るのをずっと待っていたかのように、壁に背を預けていた。
「……ショーン。……おかえり。……空は、青かった?」
「……。曇ってたよ。……最悪の天気だ」
「……あは。……じゃあ、アタシが、……キミの部屋に『青』を降らせてあげる」
彼女は僕の部屋に強引に入り込み、隅に置かれたアップライトピアノの前に座った。
そして、予告もなしに、激しいファンクのビートを刻み始めた。
『おなら・グルーヴ』。
かつて、彼女が幼稚園の教師を目指していた頃に作ったという、最低で、最高にヒップな知育音楽。
だが、今の彼女が奏でるそれは、もはや教育のための道具などではなかった。
歪んだコード。
論理を無視した、野生のポリリズム。
彼女の指が鍵盤を打つたびに、僕の部屋の空気はボストンの冷気から、熱帯のスコールのような熱狂へと塗り替えられていく。
彼女は、楽譜という設計図を笑い飛ばし、僕の完璧主義を「戯言」として解体していく。
「……メグ。……アンタ、何を」
「……繋がって。……ショーン。……キミの中の『ノイズ』を、……アタシにちょうだい」
僕は、抗えなかった。
壁に立てかけてあった Gibson のフルアコを手に取り、彼女のビートに介入する。
最初は、彼女の無秩序を正すための、冷徹なテンション・コードだった。
だが、彼女のピアノはそれを飲み込み、さらに巨大なうねりとなって僕を押し流す。
気づけば、僕は叫んでいた。
楽器を通じて、音を通じて。
飛行機に乗れない自分への怒り。
世界へ羽ばたけない屈辱。
それらすべてを、僕はギターの弦に叩きつけた。
メグは、無邪気に世界を解体するような笑みを浮かべていた。
彼女の瞳には、僕の絶望さえもが、一つの美しい旋律として映っているのだろう。
セッションが終わった後、部屋には再び、凍てつく静寂が戻ってきた。
だが、それは数分前までの寒々しい静寂ではなかった。
楽器の残響が、僕たちの身体を熱く包み込んでいる。
「……やれやれ。欠陥品同士、仲良くゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」
僕は、自嘲気味に呟きながら、ギターをケースに収める。
チケットはゴミ箱に捨てた。
だが、僕の心は、確かに今、大西洋を越えてパリの空気を吸ったような気がしていた。
僕は、隣で満足そうに『ケープコッドの塩タフィー』を頬張る少女を見る。
彼女は、僕の座標を狂わせる「バグ」だ。
だが、そのバグがあるからこそ、僕はこの狭い部屋の中で、宇宙の果てまで届くようなアンサンブルを鳴らすことができる。
「……ショーン。……次は、……パスタ。……キミの、……『再生』の味がするやつ」
「……ふん。アンタの食欲は、どんなジャズよりも底知れないな」
僕はキッチンに向かう。
ボストンの夜は、まだ明けない。
だが、僕を縛り付けていた氷は、彼女の「おなら・グルーヴ」によって、ほんの少しだけ溶け始めていた。
明日もまた、僕は空を見上げるだろう。
飛べない空を。
だが、その空の青さは、きっと昨日までとは違う色をしているはずだ。
メグ・ポッターという、壊れた青い傑作が、僕の隣にいる限り。




