落日のジャム・セッション、あるいは座標を喪失した僕たちが「自由」と名付けられた監獄へ至るまでの数分間
ボストンの冬は、徹底して僕たちを否定する。
アパートの薄い壁を抜けてくる冷気は、僕の思考を物理的に凍結させようと試み、練習室の湿度は僕の指先に論理的な絶望を突きつける。だが、それ以上に僕を苛立たせているのは、眼前に広がる光景だった。
「……あは。ショーン。……見て、この音。……『青』を通り越して、もう『無』だよ」
メグ・ポッターは、僕のアパートの部屋の中央で、まるでゴミの山に咲いた毒花のように座り込んでいた。
足の踏み場もない。
脱ぎ散らかされた服、読みかけの楽譜の残骸、そしてどこから持ってきたのかもわからないヴィンテージの機材。
その混沌の中心で、彼女は Fender Rhodes の鍵盤に、ただ静かに指を置いていた。
今日、ハンス・シュタインがボストンを去った。
あの「ミルヒー」と僕が呼ぶ、救いようのないエロジジイでありながら、音楽の深淵をその指先一つで手繰り寄せる怪物は、嵐のように去っていった。
そして、僕の手に残されたのは、彼と共に世界を回るための「航空券」――ではなく、彼が僕に突きつけた、剥き出しの課題だった。
「……メグ。どいてくれ。僕は、これから荷造りをしなきゃならない」
「……荷造り。……あは。……キミは、自分を箱に詰め込んで、どこへ行くつもり?……ここから一歩も動けない、翼の折れた鳥なのに」
彼女の声は、どこまでも静謐で、そして残酷なまでに僕の急所を抉った。
十年前の航空機事故。
僕の喉元には、今もあの時の墜落の衝撃が、熱い鉄の味となってこびりついている。
飛行機に乗れば、僕は死ぬ。
船に乗れば、僕は沈む。
このボストンという、ジャズの伝統と革新がぶつかり合う座標に縫い付けられたまま、僕はただ、燻り続けるしかない。
そのはずだった。
「……黙れ。僕は、アンタとは違う。……論理的に、一歩ずつ、この呪いを解いていくんだ」
「……論理。……あは。……じゃあ、聴かせてよ。……キミの、その『計算』された叫びを」
メグが、鍵盤を叩いた。
鳴り響いたのは、深夜の底に沈むような不協和音。
だがそれは、僕が知るどの理論書にも載っていない、圧倒的な「肯定」を孕んだ響きだった。
僕は、無意識のうちに壁に立てかけてあった Gibson のフルアコを手に取っていた。
完璧主義。
それが僕の防波堤だった。
彼女の奔放なノイズに、僕の精緻なテンション・コードをぶつける。
一分の隙もない、数学的なスウィング感。
僕たちは、言葉を介さずに、この狭いゴミ溜めの中で激突した。
音楽。
それは、かつて僕が「聖地」へ行くための手段だと思っていたものだ。
だが、メグの指先から溢れ出す音色は、僕に教える。
「聖地」は場所ではない。
今、この瞬間、互いの魂が「接続」された、この特異点こそが、僕たちの目指すべき場所なのだと。
メグは笑っていた。
玖渚友のような、静謐さと残酷なまでの純粋さを宿した、世界を解体するような笑み。
彼女は、僕が吐き出す冷笑的なフレーズの一つ一つを正確に拾い上げ、それをさらに高度な、そして破滅的なポリリズムへと変換していく。
「……ショーン。……今、キミの『恐怖』がスウィングしたよ」
メグの囁きが、僕の鼓膜を震わせる。
僕の額からは、真冬だというのに汗が滲み、指先は摩擦で熱を帯びていた。
身体の奥底で、十年間にわたって僕を縛り付けていた、あの墜落の瞬間の静寂が、ゆっくりと音を立てて崩壊していくのがわかった。
僕は、理解した。
ミルヒーが、なぜ僕を彼女の隣に置いたのか。
僕に足りなかったのは、スコアを美しく整える技術ではない。
楽譜という設計図を破り捨て、ノイズさえも音楽に変える、あの「狂気」への没入だったのだ。
「……やれやれ。欠陥品同士、仲良くゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」
僕は自嘲気味に呟き、最後のコードを激しく掻き鳴らした。
セッションが終わった後、部屋には再び、凍てつくような静寂が戻ってきた。
だが、その静寂は、数分前までの絶望的なそれとは明らかに異なっていた。
僕は、自分の不自由さを改めて噛み締める。
依然として、僕は飛行機に乗れない。
水平線を越えることもできない。
だが、今この瞬間、僕の隣でローズの余韻に浸るこの「野生の天才」がいれば、僕はボストンにいながらにして、パリの街角も、ニューヨークの喧騒も、すべてを手に入れられるような気がした。
「……ショーン。……お腹、空いた。……キミの特製パスタで、……アタシを『満たして』?」
「……アンタ、さっきタフィーをひと箱食ってただろ。……仕方ない、これが最後の晩餐だ。……ついて来い、メグ」
僕は背を向け、キッチンへと向かう。
彼女は、不気味なマングースの手袋を振り回しながら、僕の影を正確に踏み、無邪気に後を追ってくる。
外では、夜明け前の冷気が、さらにその鋭さを増していた。
だが、僕の胸の中には、彼女が刻み込んだ「ブルー・ノート」が、消えることのない残り火のように燻り続けている。
ボストンの冬は、まだ終わらない。
僕たちが、この座標から解き放たれ、自由という名の戦場へ堕ちるまで、あともう少し。
黎明の光が、雪に閉ざされた街を青く染めていく。
それは、僕たちが「昨日」という名の残像を撃ち抜き、新しいリズムを刻み始めるための、最高に皮肉な合図だった。




