氷点下のブルース、あるいはゴミ溜めに降る雪と、剥き出しの才能の共鳴
ニューヨークの夜明けは、噓をつかない。
パリ行きの飛行機まで、まだ数時間ある。ニューヨークに到着したばかりの僕は、マンハッタンの片隅にある二十四時間営業のダイナーに座り、オーナーが無言で差し出した熱いコーヒーに両手を添えながら、昨夜の「あれ」を消化しようとしていた。
消化できなかった。
昨夜のボストン最後のセッション。メグのローズが僕の論理を焼き尽くした、あの瞬間のことを。
「……ショーン。昨日、何かが変わった?」
隣のスツールにメグが滑り込んできた。マングースの着ぐるみを腰に巻きつけ、素足に雪の結晶をくっつけたまま、当然のような顔で座る。
「黙れ。素足で外を歩くな。凍傷になる」
「大丈夫。私の足は、ほら——ちゃんと音がしてる」
彼女が床をトントンと踏む。確かに、生きている音だ。
僕は返す言葉を失い、コーヒーを一口飲んだ。
「……昨日のあの演奏。お前は、どこから持ってきたんだ」
「どこから?」
「僕のスコアには書いていなかったフレーズだ。あの転調。あの——」
「ショーンの顔から」
「……何?」
「キミの顔を見てたら、聴こえたから。弾いただけ」
ダイナーの厨房で料理人が鍋をかき混ぜる音がする。外ではニューヨークの夜明けの光が街路を染め始め、街灯のオレンジ色が少しずつ白く薄れていった。
僕は、自分の手を眺めた。この手で、どれほど精緻なスコアを書いても、彼女が一瞬で「顔から」読み取ってしまう何かを、論理で記述することは、おそらく永遠にできない。
「……お前は、怖くないのか」
「何が?」
「才能が、いつか枯れることが。今の自分が、明日には鳴らせないかもしれないことが」
メグはしばらく、マングースの耳をつまんで考えていた。
「……枯れても、いいんじゃない? 今、鳴ってるんだから。……ショーンみたいに、明日のために今日を殺したくない」
その言葉が、僕の胸の奥に、鋭くて温かいものを刺した。
僕は、ずっと「明日のため」に音楽を練り上げてきた。パリで認められるための、父の亡霊を黙らせるための音楽。
だが、今この瞬間、カウンターの端で、素足のまま夜明けの光を浴びながらマングースの耳をつまんでいるこの少女の音楽は——今しか存在しない。
「……やれやれ。お前には、一生勝てないな」
「勝ち負けじゃないよ。接続だよ」
メグがにっこりと笑い、僕のコーヒーカップを横から覗き込んだ。
「ねえ、このコーヒー、ブルースの色してる。……私も飲んでいい?」
「……自分のを頼め」
「ショーンのが飲みたい」
「——好きにしろ」
僕は諦めて、カップを差し出した。彼女はそれを両手で抱えて、一口飲む。
「……おいしい。ショーンの音みたい。ちょっと苦くて、でも、ちゃんと温かい」
窓の外、ニューヨークの夜明けの通りを、早朝の清掃車が音を立てて走り抜けていく。ボストンとは違う、この街の匂い。数時間後、僕たちはここを飛び立つ。
その事実が、コーヒーの苦味と混ざり合って、どこか遠くへ沈んでいった。
「……ショーン」
「何だ」
「パリ、どんな音がするかな」
「行けば分かる」
「ショーンは、怖くないの? 飛行機」
「……怖い」
「正直だ」
「怖いが、行く。それだけだ」
メグが、コーヒーカップをカウンターに静かに置いた。
「……私も、怖いよ。でも、ショーンと一緒なら、怖くても大丈夫な気がする」
「それは根拠のない楽観だ」
「根拠は、キミだよ」
僕は、彼女の横顔から目を逸らし、窓の外の明けていく空を見た。その白さの中で、僕は初めて、自分が「明日ではなく今日のため」に音を鳴らしたいと思った。
それは、ボストンの冬が僕に与えた、最小で最大の革命だった。
そして今、その革命を抱えたまま、僕たちは空へ向かう。




