凍てつく青の座標、あるいは未来を繋ぐための「最悪」な最終列車
ボストン・サウス・ステーション。
深夜のバスターミナルは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
蛍光灯の青白い光が、タイルの床を冷たく照らしている。ベンチに座る旅行者の顔は、疲労と眠気で一様に虚ろだ。売店のシャッターは半分下りていて、残った自動販売機だけが、無機質な光を放ち続けている。
僕――ショーン・ハミルトンは、そのベンチの端に座り、膝の上に置いたギターケースを見つめていた。
隣では、メグ・ポッターが、マングースの着ぐるみの頭部をバッグ代わりにして、その中にFender Rhodesの鍵盤カバーを押し込もうとしていた。
「……入らない」
「当然だ。着ぐるみの頭はバッグじゃない」
「でも、入れたい」
「なぜ」
「このまま持ってくと、鍵盤が傷つく気がするから」
「専用のケースを使え」
「ケースは重いんだもん」
「それが楽器を運ぶということだ。妥協するな」
メグが、唇を尖らせた。
それから、観念したようにケースを取り出し、鍵盤をしまい始めた。
バスターミナルのアナウンスが、くぐもった音で流れた。
ニューヨーク行き、深夜便。まもなく発車。
これが、今夜の僕たちの最初の移動だった。
ニューヨークへ出て、そこから明日の便でパリへ。
飛行機で。
「……ショーン」
「何だ」
「緊張してる?」
「していない」
「嘘だ。さっきから、ギターケースのラッチを三回確認してる」
「確認は念のためだ。緊張とは無関係だ」
「四回目」
「……黙れ」
メグが、くすりと笑った。
無邪気な、しかしどこか優しい笑いだった。
「ショーン」
「何だ」
「明日、飛行機に乗れなくなったら、どうする?」
「乗れなくなることはない」
「でも、もし」
「もし、の話をしても意味がない」
「私は意味があると思う」
「なぜ」
「もし乗れなくなった時のことを考えておけば、実際にそうなっても慌てないから」
僕は、少しの間、その言葉を考えた。
珍しく論理的なことを言う、と思った。
「……乗れなくなった場合は、船で行く」
「大西洋を船で渡るの?」
「時間はかかるが、不可能ではない」
「何日かかる?」
「一週間程度だ」
「えー、長い」
「長くても、着く」
「でも、ショーンは船も苦手でしょ。水難事故があったから」
「……」
「じゃあ、ユーロトンネルで行く?」
「ボストンからユーロトンネルには行けない。まずイギリスに渡らなければならない」
「じゃあ、どうする?」
僕は、ギターケースのラッチに触れる手を止めた。
「……飛行機で行く」
「うん」
「それ以外の答えはない」
「うん」
「怖くても、乗る。乗れなければ、お前が引っ張れ」
「引っ張る。任せて」
「任せてどうする。お前の腕力では、俺を一歩も動かせないだろう」
「腕力じゃなくて、音楽で引っ張る」
「……どうやって」
「歌う」
「飛行機の中で歌うな。迷惑だ」
「じゃあ、耳元で小さく歌う」
「それも迷惑だ」
「ショーンだけに聞こえる声で歌う」
「……それはもはや歌ではなく、息だ」
「息でも、音楽になる。ショーンが教えてくれたでしょ。どんな音でも、意図があれば音楽になるって」
「俺がそんなことを言ったか」
「言ってないけど、そういう演奏をしてた」
僕は、何も言えなかった。
言えなかったが、口の端が、わずかに動いた。
バスターミナルに、エンジン音が響いた。
深夜便が、構内に入ってきた。
大型の長距離バスが、停留所に滑り込む。
乗客たちが、重い荷物を抱えて立ち上がり始めた。
「ショーン」
メグが、立ち上がりながら言った。
「うん?」
「ボストンを出るの、怖い?」
「怖くない」
「本当に?」
「……少し、怖い」
正直に言った。
メグが、少しだけ目を細めた。
「私も」
「お前が怖いものは何もないんじゃなかったのか」
「ここを離れることは、怖い」
「なぜだ。お前はボストンが好きなのか」
「ボストンが好きなんじゃなくて、ここでの時間が好きだった。……ライアンたちと練習した倉庫とか、ショーンと歩いたチャールズ川沿いとか、ハリセン先生に怒鳴られた練習室とか」
「……」
「全部、置いてくんだなって思ったら、少し」
「置いていくわけじゃない」
「え?」
「記憶は持っていける。音楽も持っていける。大切なものは、全部体の中にある。場所を離れても、なくなりはしない」
メグが、僕を見た。
その青い瞳に、何かが揺れた。
「……ショーン、それ、すごくいいこと言った」
「普通のことだ」
「普通じゃない。ショーンにしては、めちゃくちゃ詩的だった」
「余計な感想はいらない」
「スコアに書いておきなよ」
「音楽の言葉じゃない」
「音楽の言葉だよ。全部、音楽の言葉だよ」
乗車アナウンスが流れた。
僕は立ち上がり、ギターケースを肩に担いだ。
メグが、鍵盤ケースを両手で抱えた。
バスに向かって、歩き出した。
「ショーン」
「何だ」
「ニューヨーク、行ったことある?」
「ない。飛行機に乗れないから、行けなかった」
「私も、ちゃんと行ったことない。ちょっとだけバスで通り過ぎたことはあるけど」
「明日の乗り継ぎまで、数時間ある。街を少し歩ける」
「ほんと!?」
「ただし、迷子になるな。時間通りに空港に来い。余計なものを買うな。騒ぐな」
「はーい」
「返事が軽い」
「はい、ショーン様」
「その呼び方もやめろ」
バスのドアが、僕たちの前に開いた。
乗り込む直前、メグが立ち止まった。
振り返って、ターミナルの外、夜のボストンの空を見上げた。
「……さようなら、ボストン」
小さな声だった。
僕は、振り返らなかった。
しかし、頭の中で、同じ言葉を繰り返した。
さようなら、ボストン。
お前は俺を、十年間縫い止めた。
しかし、お前のおかげで、俺はここまで来た。
バスに乗り込んだ。
シートに座った。
メグが隣に滑り込んで、すぐに窓の外を見始めた。
バスが動き出した。
ターミナルの明かりが遠ざかる。
チャールズ川が、窓の外に現れて、消えた。
バークリーの赤煉瓦が、夜の闇に溶けていった。
「ショーン」
「何だ」
「眠っていい?」
「好きにしろ」
「起こしてくれる? ニューヨーク着いたら」
「目的地なんだから、アナウンスが流れる」
「ショーンの声で起こしてほしい」
「……寝言を言うな」
「寝言じゃないもん」
「寝ろ」
「はーい」
数分後、メグの呼吸が、静かに深くなった。
本当に眠った。
僕は、窓の外の闇を見つめた。
高速道路の街灯が、一定のリズムで流れていく。
一つ、また一つ。
そのリズムが、スコアの中のオスティナートのように、規則正しく繰り返された。
明日、飛行機に乗る。
怖い。
しかし、行く。
行かなければならない場所が、パリにある。
そして、隣で眠っているこの「壊れた傑作」も、一緒に連れていく。
それだけが、今の僕に確かなことだった。
高速道路の闇の中を、バスは走り続けた。
ボストンが、遠ざかっていく。
しかし、音楽は、ちゃんとここにある。
僕の体の中に。
メグの寝息の中に。
夜が、静かに深まっていった。




