青の暴走、あるいは「野生」という名の戦慄するポリリズム
ボストンの冬が、牙を剥いた。
視界を遮る吹雪は、僕の眼球を凍りつかせようと執拗に絡みつく。だが、それ以上に僕の胸を締め付けていたのは、眼前の光景だった。
バークリー音楽大学、ピアノ科のホール。
そこでは今、ジャズの歴史が音を立てて崩壊し、同時に新しい生命が産声を上げようとしていた。
ステージの上には、一台のフェンダー・ローズ。
そして、その鍵盤を暴力的なまでの純粋さで叩きつける、一人の少女。
メグ・ポッター。
彼女の背中は、まるで深海に沈む難破船のように静かで、それでいて凄まじい水圧を周囲に撒き散らしていた。
「……あは。壊してあげる。全部、全部、無機質な記号に変えてあげる」
彼女の呟きが、アンプから放たれる歪んだ音色に混ざる。
僕が教えたジャズ・スタンダード。
僕が緻密に構成し、完璧なヴォイシングで埋めたはずの『Round Midnight』の譜面。
彼女はそれを、一枚ずつ指先で引き裂き、燃やし、その灰から全く別のバベルの塔を築き上げていた。
隣に立つ僕は、ギブソンのフルアコを抱えたまま、一歩も動くことができなかった。
冷や汗が背中を伝う。
これが「野生」か。
理論を「戯言」として解体する、玖渚友のような静謐さと、残酷なまでの純粋さ。
彼女の指が黒鍵を滑るたび、ホール内の酸素が希薄になっていく。
彼女が奏でるのは、もはや音楽ではない。
それは、彼女の脳内に存在する「宇宙」そのものの出力だ。
「おい、メグ! 落ち着け! リズムが走りすぎている!」
僕は叫んだ。だが、僕の声は彼女のポリリズムに容易く飲み込まれる。
彼女の瞳は、もはや僕を見ていない。
死線のような青い瞳は、ただ一点、音の特異点だけを見つめている。
サヴァンとしての「耳」が、僕たちの理解を遥かに超えた次元のテンション・コードを拾い上げているのだ。
観客席に座る、教授陣の顔が引き攣っているのが分かった。
ハリセン・ミラーが、手にした楽譜の束を震わせている。
ロバート・ウィルソンが、感嘆とも恐怖ともつかない吐息を漏らしている。
そして、あの老いぼれた伝説――シュタイン。ミルヒーだけが、唇の端を吊り上げ、愉悦に満ちた表情でその光景を眺めていた。
「……やれやれ。これじゃあ、僕の出番なんてどこにもないじゃないか」
僕は自嘲気味に呟き、ギターのピックを強く握り直した。
本来、このステージを支配するのは僕だったはずだ。
完璧主義者である僕が、バンドリーダーとして全ての音を掌の上で転がし、数学的ジャズの極致を見せつけるはずだった。
だが、どうだ。
僕は今、彼女という名の嵐に翻弄される一艘の小舟に過ぎない。
飛行機恐怖症?
船舶拒否?
そんな、自分を座標に縛り付けるための言い訳が、あまりにも陳腐に思えてきた。
彼女は、ボストンという「座標」を、音だけで飛び越えようとしている。
ニューヨークへも、パリへも。
彼女のローズの響き一つで、世界は書き換えられる。
「……ショーン。キミ、置いていかれちゃうよ?」
メグが、不意に首を傾けて僕を見た。
無邪気に世界を解体するような笑み。
その瞬間、彼女の指がローズの低域を力強く叩いた。
地鳴りのようなベースライン。
それは、僕への招待状であり、同時に挑戦状だった。
僕は覚悟を決めた。
論理? 数学? そんなものは捨ててやる。
彼女がノイズを音楽に変えるというのなら、僕はそのノイズをさらに高い次元の共鳴へと昇華させてやる。
僕はギブソンのボリュームノブを全開にした。
指先が弦に触れた瞬間、火花が散るような感覚が走る。
彼女の奔放なインプロヴィゼーションに、僕の冷徹なカッティングを叩き込む。
衝突。拒絶。そして、奇跡的なまでの融合。
「あは。……繋がったね、ショーン」
メグの瞳が、さらに深く青く染まる。
ホールの空気はもはや凍てついてはいない。
そこにあるのは、ボストンの冬さえも溶かす、狂熱のブルー・ノートだ。
僕たちは、ゴミ溜めのような現実の中で、共に共鳴を始めた。
欠陥品同士。壊れた傑作同士。
この不協和音こそが、僕たちが世界に対して唯一叫ぶことのできる、真実の旋律だった。
曲が終わった瞬間、静寂がホールを支配した。
それは、神さえも声を失ったかのような、あまりにも重い沈黙。
僕は、肩で息をしながら、隣に座る少女を見た。
彼女は、三日に一度しか入らない風呂のせいで少し乱れた髪をそのままに、満足そうに微笑んでいた。
「……ショーン。今日のパスタ、何?」
「……アンタ、この状況で食い物のことか」
僕は溜息をつき、それでも口元が緩むのを抑えられなかった。
ニューヨーク。
地獄の入り口。
そこに何が待っていようとも、この「野生の宝石」を隣に置いたまま、僕は止まることはできないだろう。
ボストンの夜は深い。
だが、僕たちの胸の中に灯った青い炎は、もう誰にも消すことはできない。
孤独を調律するための闘いは、まだ始まったばかりなのだから。




