氷下のコラール、あるいは「座標」を喪失した天才たちが踊る狂騒の雪夜
ボストンの冬は、思考を停止させるほどに冷酷だ。
吐き出す息は白く凍りつき、チャールズ川を吹き抜ける風は、音大のエリートたちの虚栄心を容赦なく剥ぎ取っていく。
S・ビッグバンド、解散ライブの喧騒から数時間が過ぎた。
アドレナリンが引いた後の血管を、ボストンの深夜の冷気が満たしていく。僕は一人、雪の積もった路地を歩いていた。
耳の奥では、まだあの不快で、それでいて抗いがたいリズムが鳴り響いている。
メグ・ポッターの、あの「解体」の音だ。
「……ショーン、待ってよ。足跡、踏んじゃうから」
背後から、綿を詰め込んだような足音が追いかけてくる。
振り向かなくてもわかる。隣室の住人であり、僕の平穏な「論理」を破壊し続ける青い毒、メグだ。
彼女は、ボストンの街灯の下で、死線のような青い瞳をさらに蒼く輝かせ、無邪気に世界を解体するような笑みを浮かべていた。
「ついてくるなと言ったはずだ。解散したんだ、もう僕たちが『共鳴』する理由は一分一秒たりとも残っていない」
「そんなことないよ。だって、キミの作るパスタの匂いが、まだアタシの指先に『接続』してるもん。……ねえ、ミルヒーはどこに行ったのかな?」
シュタイン。あの老怪物は、ライブ終了と同時に霧のように消えた。
僕に「譜面の外側にある魂」という名の呪いを叩きつけ、満足げにストリップクラブへでも消えたのだろう。
あとに残されたのは、自分の限界を突きつけられた僕と、上昇志向という猛毒を打ち込まれた「野生の宝石」だけだ。
僕たちは、どちらも壊れている。
僕は十年前の航空機事故の記憶に縛られ、ここから一歩も動けない。
聖地ニューヨーク、あるいは父の待つ欧州。
地図の上ではわずか数百マイルの距離が、僕にとっては銀河の果てよりも遠い。
僕は、ボストンという「座標」に縫い止められた、羽根をもがれたサラブレッドだ。
「……座標、か」
僕は呟き、足を止めた。
目の前には、雪に埋もれた小さな公園があった。
ブランコが風に揺れ、鉄錆の音が不規則なポリリズムを刻んでいる。
「ショーン。……あのね、アタシ、決めたんだ」
メグが、僕の横に並ぶ。
彼女の青白い肌が、街灯の光を反射して発光しているように見えた。
「何をだ。また幼稚園の先生になるための『おなら・グルーヴ』を量産するのか?」
「ううん。……キミと一緒に、銀河の果てまで行くの。……『スペース・ごろ太』みたいに、ワープ航法を使って、誰も知らないブルーノートを見つけに行くんだよ」
彼女は、雪の上に転がっていた古い枝を拾い上げ、指揮を執るような仕草を見せた。
その動きは、僕が幼少期に憧れた巨匠ヴァレンティのそれとは程遠い。
だが、その枝が空気を切り裂くたび、僕の脳内には存在しないスコアが書き込まれていく。
論理と数学。スウィングという名の精密な機構。
だが、その歯車の間に、彼女の「ノイズ」が挟まった瞬間、機構は爆発し、見たこともない色彩の音楽が溢れ出す。
「……勝手なことを言うな。僕は、ここから動けないんだ。空も海も、僕を拒絶している」
「なら、アタシが空になるよ。ショーンが溺れないように、アタシが底なしの青い海になってあげる。……だから、キミはただ、アタシを『アテンド』してればいいんだよ」
彼女は、屈託のない笑みを浮かべた。
玖渚友のような静謐さと、残酷なまでの純粋さ。
彼女は知っているのだ。僕が、彼女の才能という名の深淵に、既に片足を突っ込んでいることを。
「……やれやれ。欠陥品同士、仲良くゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」
僕は、彼女の持つ枝をひったくり、雪の中に放り投げた。
冷たい。
だが、その冷たさが、今の僕には心地よかった。
「帰るぞ、ポッター。……カニ抜きだが、最高のペペロンチーノを作ってやる」
「あは! ショーン大好き! 唐辛子は、銀河の星の数だけ入れてね!」
「……死ぬ気か」
僕たちは、再び歩き出す。
雪の上に刻まれる二つの足跡。
それは、まだどこにも辿り着いていない。
ボストンという座標は、依然として僕を縛り付けている。
だが、隣で跳ねるように歩くこの「青い傑作」が、僕の鎖を少しずつ、着実に削っているのも事実だった。
シュタインがいなくなり、S・ビッグバンドは消えた。
だが、それは終焉ではない。
僕の中に芽生えた、この激しい飢餓感。
譜面の外側にある、血の通った「ブルーノート」への渇望。
「ショーン。……来年の冬、またここで雪が降る頃、キミは何を見てるのかな?」
「……決まっている。アンタの酷いミスタッチを修正しながら、プロ級のパスタを茹でている自分だ」
「あは。それはそれで、最高のアドリブだね」
ボストンの夜が明けていく。
氷の下を流れる川のように、僕たちの音楽は、まだ見ぬ海へと向かって、密かに、しかし力強く、その鼓動を刻み始めていた。
僕は、まだ空を飛べない。
だが、彼女の奏でる歪んだローズの音色があれば、この凍土からでも、銀河の果てまで「接続」できるような気がしていた。
それが、僕たちという「呪われた天才」たちの、新しいスウィングの始まりだった。




