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凍土のララバイ、あるいは「青い傑作」が夢見る幼稚園の屋根裏

僕は、逃げるようにアパートへ戻っていた。


シュタインとの会話の後遺症が、まだ頭の奥に残っている。


お前はサラブレッドだ。


お前の音楽には、もっと広い舞台が必要だ。


分かっている。


分かっていて、動けない。


飛行機に乗れない僕には、その「広い舞台」への道が、最初から閉ざされているのだから。


アパートの階段を上りながら、僕は自分の手を見た。


この手で、どれほど完璧なスコアを書いても、届かない場所がある。


それが、十年間、僕を蝕んできた事実だった。


自室のドアを開けた瞬間、廊下の隅に人影を見つけた。


ゴミ袋と見紛うような体勢で、メグ・ポッターが丸まっていた。


「……なぜここにいる」


「待ってた」


「俺の部屋の前で丸まって待つな。不審者だ」


「寒かったから丸まった」


「廊下にいるからだ。鍵を渡した覚えはないが、なぜ室内に入らなかった」


「ショーンの部屋に、勝手に入るのは悪いと思って」


「今更そういうことを言うか」


僕は呆れながらも、ドアを開けた。


メグがゆっくりと立ち上がると、僕の部屋のドアを強引にこじ開けて入り込んだ。


「……勝手に入るのが悪いんじゃなかったのか」


「招待されたから」


「開けただけで招待したつもりはない」


メグは聞こえていないような顔で、部屋の中央に進み、グランドピアノの前に吸い込まれるように座った。


蓋を開ける。


鍵盤に指を置く。


しかし、弾かなかった。


ただ、鍵盤を眺めていた。


「……どうした」


「なんでもない」


「お前が鍵盤を前にして弾かないのは、なんでもない時ではない」


メグが、少しだけ笑った。


「ショーン、鋭い」


「観察しているだけだ」


「同じだよ」


しばらく、沈黙が続いた。


窓の外では、ボストンの雪が、静かに積もり続けていた。


「ショーン」


「何だ」


「私ね、昔、先生になりたかった」


「音楽の教師か」


「ちがう。幼稚園の先生」


僕は、少し意外に思った。


それは確かに、メグ・ポッターという人間から最も遠い職業のように聞こえた。


「……なぜ」


「子供の頃、ケープコッドの幼稚園に、すごく好きな先生がいて」


メグは、鍵盤の上に指を置いたまま、遠くを見るような目をした。


「その先生がね、音楽の時間に、いつも変な歌を歌うんだよ。楽譜通りじゃなくて、その日の天気とか、子供たちの顔とか見て、毎回違う歌にする。子供たちはみんな、その先生の歌が大好きだった。私も大好きだった」


「……」


「その先生がね、一度だけ私に言ったんだよ。『メグちゃんの音楽は、特別だ。でも、特別な音楽は、誰かに届いて初めて本物になる』って」


「……誰かに届いて初めて本物になる」


「うん。その時は意味が分からなかった。でも、最近、少し分かってきた気がする」


「どういう意味だと思う」


メグは少し考えてから、ゆっくり言った。


「どんなに自由に音楽をしても、誰にも聴こえない場所でやってたら、それは音楽じゃなくて、独り言だよ、って意味かな。……先生はね、幼稚園の子供たちに、毎日、自分の音楽を届けてた。プロのコンサートホールじゃなくて、砂場とか、お昼寝の時間とか、そういう場所で。でも、それが本物だったんだよ、って今は思う」


「……だから、幼稚園の先生になりたかったのか」


「うん。あの先生みたいに、誰かに音楽を届けたかった。ホールじゃなくてもいい。有名じゃなくてもいい。ただ、届いてほしかった」


「……なぜ、ならなかった」


「バークリーに来たから」


「バークリーに来たことと、幼稚園の先生になることは、両立できるんじゃないか」


「そうかもしれないけど、バークリーに来たら、音楽が大きくなりすぎて、幼稚園の砂場に収まらなくなった気がした」


「それは、悪いことか」


メグが、僕を見た。


「……分からない。でも、たまに思うんだよ。あの幼稚園の先生みたいに、毎日、誰かの一番近くで音楽をする人生も、あったのかなって」


僕は、彼女の言葉をしばらく、ただ受け取っていた。


それから、静かに言った。


「……お前の音楽は、今も誰かに届いている」


「え?」


「ライアンに。マスミに。ローズに。キヨラに。そして俺に。お前の音が届かなければ、俺のスコアは死んでいた。それは事実だ」


「……」


「ホールでなくても、砂場でも、ゴミ溜めの練習室でも、届く音は届く。お前はすでに、あの先生と同じことをしている」


メグが、しばらく黙っていた。


それから、ゆっくりと、鍵盤に指を置いた。


最初の一音が、部屋に広がった。


それは、これまで聴いたどの演奏とも違う音だった。


技巧でも、感情の爆発でもなく。


ただ、静かに、誰かに届こうとしている音だった。


幼稚園の砂場で鳴っていたかもしれない音が、ボストンのアパートの、夜の部屋に満ちていった。


僕は、ギブソンを手に取らなかった。


ただ、聴いていた。


「……ショーン」


演奏が終わった後、メグが言った。


「今のは誰かに届いた?」


「届いた」


「誰に?」


「俺に」


「それで十分?」


「十分だ」


メグが、無邪気に世界を解体するような笑みを浮かべた。


しかし今夜のそれは、いつもより少しだけ、柔らかかった。


「ショーン」


「何だ」


「おなか、すいた」


「……今の話の流れで、そこに着地するか」


「おなか、すいたものはすいた」


「……パスタを作る。待て」


「やった」


「ただし、風呂に入れ。三日入っていないだろう」


「二日だよ」


「どちらにせよ入れ。パスタは風呂から上がった後だ」


「えー」


「パスタが先か、風呂が先か」


「……風呂、入ってきます」


「よし」


メグが立ち上がった。


着ぐるみの袖を振りながら、浴室に向かう。


僕は、キッチンに立った。


鍋に湯を沸かしながら、さっきのメグの言葉を反芻した。


誰かに届いて初めて本物になる。


それは、音楽の話だけではないかもしれない、と僕は思った。


スコアを書くことも。


バンドを組むことも。


いつかパリへ行くことも。


全部、誰かに届けるためだ。


そして、その「誰か」の中に、あのケープコッドの幼稚園の先生が、ずっといるのだとしたら。


メグ・ポッターという人間が、あの先生への答えを、まだ音楽の中で探し続けているのだとしたら。


それは、とても美しいことだと、僕は思った。


口には出さなかったが。


パスタが茹で上がった。


浴室から、メグの鼻歌が聞こえてきた。


音程は外れていた。


しかし、確かに、誰かに届いていた。


ボストンの夜は、まだ終わらない。


しかし、今夜は少しだけ、温かかった。

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