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氷塊の摩天楼、あるいは「座標」を失ったサラブレッドの慟哭

ボストンの冬は、昨日までの熱狂を嘲笑うかのように、鋭い沈黙を連れてきた。

ブルーノート・ボストンを揺らした「S・ビッグバンド」の喝采は、一夜明ければ、凍りついたアスファルトの上に散らばる吸い殻のようなものだ。


僕は、大学のラウンジで独り、冷え切ったコーヒーを喉に流し込んでいた。

手元には、昨晩のコンテストの結果。

『最優秀賞:S・ビッグバンド』

その文字が、自分を縛る鎖のように見えてならない。僕たちは勝った。ハリセンを黙らせ、ハヤシを絶望させた。だが、僕の心臓を覆う氷は、一向に溶ける気配を見せなかった。


「……あは。ショーン、そんな顔してると、また眉間のシワから『負のポリリズム』が漏れ出ちゃうよ?」


背後から忍び寄る、音のない気配。

メグ・ポッター。

彼女は、僕の隣に座ると、当然のように僕のコーヒーに手を伸ばした。


「……ポッター。昨日の今日で、よくそんな能天気な顔ができるな」


「だってもう、終わったことだし。音楽は、空気に溶けたらもう宇宙のゴミだよ。……それよりショーン、今日のアタシ、昨日より少しだけ『接続』が深い気がするんだ」


彼女の青い瞳が、僕の視線を射抜く。

昨日のステージ。彼女の鳴らしたフェンダー・ローズの歪み。

あの瞬間、僕は確かに見た。楽譜という名の檻を焼き尽くし、純粋な音の暴力となって世界を解体する、彼女の本質を。

そして、その光に当てられてしまった僕の「欠落」を。


「……ああ、そうだろうな。君は自由だ。ボストンだろうが、ニューヨークだろうが、あるいは地の果てだろうが、ローズ一台あれば世界を書き換えられる」


僕は、自分の右手をじっと見つめた。

ギブソンの弦を弾き、バンド全体の呼吸を統べる僕の手。

だが、この手には翼がない。


「でも、ショーン。君はここにいるじゃない」


「……黙れ。僕がここにいるのは、僕の意志じゃない。……ただ、逃げられないだけだ」


頭の奥で、十年前の轟音が蘇る。

機体が激しく揺れ、酸素マスクが降りてくる光景。隣で震えていた見知らぬ誰かの叫び。

あの日、僕の魂はあの大西洋のど真ん中に、あるいは地中海の深い底に、置き去りにされたままだ。

本場ニューヨークのクラブでタクトを振ることも、パリの歴史ある楽団を率いることも、僕には許されない。


「……あ。ミルヒーだ」


メグが、窓の外を指さした。

そこには、派手な毛皮のコートを羽織り、朝っぱらからストリップ劇場のチラシを眺めている、ろくでもない老人がいた。

ハンス・シュタイン。

世界を動かすインプレサリオでありながら、僕をこのゴミ溜めのようなバンドに放り込んだ、不倶戴天の師匠。


僕は椅子を蹴立てて立ち上がり、ラウンジを飛び出した。

冷気が肺を刺す。

雪の積もった噴水広場で、僕はその背中に向かって叫んでいた。


「シュタイン! アンタの目的は何だ! こんな落ちこぼれをまとめて、何の満足がある! 僕を……僕をいつまで、この狭いボストンに閉じ込めておくつもりだ!」


老インプレサリオは、ゆっくりと振り返った。

その眼差しは、普段のエロジジイのそれではない。

何千もの天才を使い捨て、音楽の歴史を裏側から操ってきた、怪物としての鋭利な視線。


「ショーン。君はまだ、自分が『鳥』だと思っているのかい?」


「……何だと?」


「君は、檻の中にいるんじゃない。君自身が、檻そのものなんだよ。……譜面通りにスウィングし、理論通りに熱狂する。そんなものは、誰にでもできる『事務作業』だ。昨日のメグを見なかったのかい? 彼女は、自分の血を音に変えていた。君はどうだ? 君は、自分の血を流すのを怖がっている。……座標に縫い止められているのは、足じゃない。君の臆病な魂だ」


シュタインの言葉が、弾丸となって僕の胸を撃ち抜く。

図星だった。

飛行機が怖いのではない。

本場で、本物の「怪物」たちと対峙したとき、自分の論理が、自分の積み上げてきたすべてが、ただの砂の城に過ぎないと証明されるのが、怖くてたまらないのだ。


「……黙れ。アンタに何がわかる」


「わかるさ。……だから、君に『毒』を飲ませた。S・ビッグバンドという名の、致死量の毒をね。……明日、このバンドは解散させる」


「……は?」


「予定通りだよ。一期一会のセッション。それがジャズだ。……ショーン、君の次のステージは、もう用意してある。……ただし、そこへ行くには、君が自分の『鎖』を自力で断ち切るしかない」


シュタインは、それだけ言うと、雪の中に消えていった。

後に残されたのは、僕と、いつの間にか後ろに立っていたメグ、そして白く染まった無機質な街並みだけだ。


「……解散、だってさ」


メグが、ぽつりと呟いた。

彼女の声には、悲しみも、怒りもない。ただ、冬の風のような静謐さだけがあった。


「……ああ。そうらしいな。……結局、僕は何も変えられなかった」


「ううん。ショーン、君は変えたよ。……アタシの耳の中に、君のパスタの匂いみたいな、温かい音が残ってるもん」


彼女はそう言うと、僕のコートの袖を、ほんの少しだけ引いた。

その手の熱が、厚い生地を通して、僕の心臓に伝わってくる。


「……ポッター。……メグ」


「ん?」


「……パスタを作ってやる。……今夜が、最後だ」


僕は、空を見上げた。

鉛色の雲の向こうには、どこまでも続く空があるはずだ。

僕にはまだ、それを見上げる勇気はない。

だが、足元の雪を蹴り、一歩を踏み出す力だけは、昨日のあの「ノイズ」が僕に与えてくれた。


僕は、サラブレッドなんかじゃない。

泥にまみれ、座標を失い、それでも音を鳴らし続けるしかない、ただの「表現者」だ。


「……あ。ショーン、カニ入れてね。カニ」


「……ベーコンだと言ってるだろうが」


僕たちは、大学の門を出る。

ボストンの冬は、まだ終わらない。

だが、僕の心の中で、何かが音を立てて砕け始めていた。

それは、昨日までの僕を縛っていた、透明な氷の座標だった。


僕は、まだ飛べない。

だが、このゴミ溜めの中で、最高のアンサンブルを鳴らすことはできる。

いつか、この空が僕を許すその日まで。

僕は、彼女という名の「狂気」を抱えて、この街の夜を焼き尽くすだけだ。

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