落日のコンクリート・ジャングル、あるいは「座標」を焼き尽くす青い閃光
ボストンの冬は、光さえも凍りつかせる。
コンクリートの隙間から這い出す冷気が、正装を整えた僕の肌を刺した。今日、この街の「ブルーノート・ボストン」は、一介の音大祭の会場から、僕の人生の処刑場へと変貌する。
「……ショーン。君、さっきからネクタイを締めすぎてて、窒息死しそうな音がしてるよ」
背後から、霧のように形のない声がかけられる。
メグ・ポッター。
マングースのぬいぐるみこそ自重させたが、彼女の纏う空気は相変わらず、この世の物理法則を無視して漂っている。
「黙れ、ポッター。……いいか、今日の『My Funny Valentine』は、昨日の練習の延長じゃない。あれは生存確認だ。僕たちが、この凍えそうな街でまだ息をしていることを、あのハリセンやハヤシの脳髄に直接叩き込むための、唯一の手段だ」
僕は、愛用のギブソンを強く握りしめた。
指先が微かに震えているのは、寒さのせいではない。
ステージの裏側。そこには、エリートとしての僕を嘲笑うかのように、チャーリー・ハヤシ率いる「ハヤシ・モダン・アンサンブル」の完璧な残響が漂っていた。
彼らの演奏は、まさに「正解」だった。
一分の隙もないテンション・コード。予定調和の中に組み込まれた、清潔な即興。観客は拍手し、審査員たちは満足げに頷いている。
……クソ食らえだ。
そんなものは、譜面という名の墓石を磨いているに過ぎない。
「――次。S・ビッグバンド。準備はいいか」
舞台監督の冷徹な声。
ライアンが、テナーサックスを抱えて野良犬のような顔で僕を見た。
マスミが、アフロヘアを揺らしながらドラムスティックを、まるで運命の糸を紡ぐ針のように握り直した。
そして、メグ。
彼女は、ただ静かにフェンダー・ローズの前に座った。その青い瞳は、もはやこの現実を見ていない。
僕たちは、ステージという名の断頭台へ上がる。
スポットライトが、僕たちの「醜悪な誠実さ」を白日の下に晒す。
客席の最前列には、ハリセン・ミラーが腕を組み、審判を下す準備を整えていた。
僕は、右手を上げた。
僕はこのバンドの「王」ではない。この狂ったアンサンブルを繋ぎ止める、唯一の「結び目」に過ぎない。
僕の合図とともに、マスミのドラムが鳴り響く。
――ポリリズム。
4分の4拍子の中に、強引にねじ込まれた3拍子の鼓動。
それは、僕がボストンで感じてきた、出口のない焦燥そのものだ。
「……あは。いくよ、ショーン」
ローズの音が、空間を裂いた。
メグの指先から放たれるのは、甘いバレンタインのメロディではない。
それは、臓物を抉り出すような、残酷なまでの「ブルー」。
彼女は楽譜を殺した。そして、その死骸から、かつて誰も聴いたことのない新しい生命を産み落としていく。
ライアンのサックスが咆哮する。
教科書通りの美しい音色など、そこにはない。
ただ、生きるために必要な、血の混じった咆哮。
僕のギターが、その混沌を、鋭いフレーズで縫い合わせていく。
「な……ッ! 何だ、この音は……!」
客席でハリセンが身を乗り出すのが、視界の端に見えた。
そうだ。驚け。
これが、君たちが「ゴミ」と呼んで捨てた、僕たちの正体だ。
論理と狂気。数学と野性。
相反するはずの要素が、メグの鳴らすローズの歪みの中で、一つの巨大な「うねり」となって会場を飲み込んでいく。
僕は、自分がこの「座標」に縛られていることを、一瞬だけ忘れていた。
飛行機に乗れなくても、海を渡れなくても。
今、この場所で鳴っている音は、間違いなくニューヨークへ、ロンドンへ、そしてパリへと繋がっている。
メグと目が合う。
彼女は、無邪気に笑っていた。
世界を解体し、再構築し、僕という人間を音楽の深淵へと引きずり込む、悪魔のような笑み。
「……壊れてる。だから、キミが必要なんだよ」
彼女の呟きが、爆音の中で確かに僕の脳に届いた。
ああ、分かっている。
僕たちは欠陥品だ。
だからこそ、この歪んだ和音の中でしか、呼吸ができない。
最後の一音が、ボストンの冷たい大気に溶け込んだ。
静寂。
それは、死よりも深い沈黙だった。
誰もが、今聴いたものが何だったのかを理解できずに、ただ立ち尽くしている。
……数秒後。
爆発的な喝采が、僕たちの鼓膜を蹂躙した。
僕は、汗を拭うことも忘れ、ただ呆然と立っていた。
拍手の渦の中に、ハリセンが「負けた」とでも言うように、深く椅子に身を沈める姿があった。
ハヤシが、信じられないものを見たという顔で、自分の譜面を握りつぶしているのが見えた。
「ショーン! やったよ! 俺たち、最高の演奏をしたんだ!」
ライアンが僕の肩を叩く。
マスミが涙を流しながら、僕に抱きついてくる。
だが、僕はただ、ローズの前で満足げにケープコッドの塩タフィーを口に放り込んでいるメグを見ていた。
「……ポッター。……いや、メグ」
「んー? ショーン、お腹空いた。お祝いで、パスタにカニも入れていい?」
僕は、溜息をついた。
この熱狂も、この勝利も。
彼女にとっては、空腹を満たすためのスパイスに過ぎない。
だが、そんな彼女の「空虚な純粋さ」が、僕をここまで連れてきたのだ。
ステージを降りる際、僕は振り返った。
暗い客席のどこかに、あのエロジジイ——シュタインのニヤけた顔が見えた気がした。
『譜面の外側にある魂』。
僕が、理屈を並べて無視してきたその存在を、僕は今日、このゴミ溜めのようなバンドで、確かに手に入れたのだ。
「……行くぞ、お前たち。今日は、僕の奢りだ。レッド・ランタンで、食べきれないほどの肉を注文しろ」
「よっしゃあああ!」
歓喜に沸く仲間たちを横目に、僕はメグの手を、ほんの一瞬だけ引いた。
ボストンの冬は、まだ続く。
僕たちの「座標」は、まだ動かないかもしれない。
だが、今日、僕たちは確かに世界をスウィングさせた。
いつか、この飛行機恐怖症を克服し、空を翔ける日が来るのか。
それとも、この凍てつく街で、一生音楽の墓守をするのか。
それは、まだ分からない。
だが、隣でタフィーを噛み砕く、この青い傑作がいる限り。
僕の指先が、絶望を奏でることは、もう二度とないだろう。
「……ショーン。君の右手、まだ4分の5拍子だよ。次は、ボクの組曲に『接続』させてあげる。……覚悟しててね?」
「……フン。受けて立ってやる。……行くぞ、メグ」
僕たちは、光り輝くステージから、冷たい闇が支配するボストンの街へと踏み出す。
そこには、僕たちの新しい譜面が、真っ白な雪のように広がっていた。




