氷下の奔流、あるいは「野生の宝石」を繋ぎ止めるための即興的ソロ・フライト
ボストンの冬は、静寂さえも刃物に変える。
深々と降り積もる雪は、世界のノイズを吸い込み、僕を「座標」へと縛り付ける冷たい檻だ。
だが、その檻の鍵を、あろうことか僕自身が投げ捨てようとしていることに、僕はまだ気づいていなかった。
「……あは。ショーン。雪、五線譜みたいに降ってるね」
隣を歩くメグ・ポッターが、無邪気な笑みを浮かべて空を仰ぐ。
その青い瞳には、僕が見ている「凍てつく絶望」など一ミリも映っていない。彼女に見えているのは、雪の結晶が空を切る速度から導き出される、誰も聴いたことのないポリリズムだけだ。
S・ビッグバンド。
シュタインが残した、ゴミ溜めの掃き溜めのようなアンサンブル。
その実質的なリーダーとして、僕は今、かつてないほどの高揚と、それ以上の苛立ちに焼かれていた。
原因は、隣でマングースのぬいぐるみを抱えながら鼻歌を歌う、この「壊れた青い傑作」だ。
練習室。
そこには、昨日の熱狂から冷めやらぬ「変人たち」が集結していた。
ライアンがサックスを磨き、マスミがスティックを回し、ローズが自分より巨大なウッドベースの陰で震えている。
「いいか、昨日の演奏はただの『暴発』だ。今日からは僕が、その暴発を論理という枠組みに収めてやる。一音でも僕の設計図から逸脱する奴は、即座にクビだと思え」
僕は冷徹な声を練習室に響かせる。
完璧な数学的秩序。それが僕の目指すジャズだ。
だが、僕の正面に座るメグだけは、僕の言葉を「心地よいBGM」程度にしか捉えていないようだった。
「……ショーン。キミの言葉、テンション・コードが多すぎて、時々接続が切れちゃうよ」
「……黙ってろ、ポッター。ピアノに向かえ」
僕は、彼女に一通のスコアを叩きつけた。
僕が徹夜で書き上げた、緻密なモーダル・ジャズの設計図。
自由奔放な彼女の感性を、あえて数学的な規則性の中に閉じ込めるための「檻」だ。
だが。
彼女がフェンダー・ローズの鍵盤に触れた瞬間、僕の「檻」は、紙屑のように無残に切り裂かれた。
「……違う! そこでその和音を置けとは書いていない!」
僕の怒号が響く。
だが、メグの指は止まらない。
彼女は楽譜を見ていない。ただ、僕が提示した「論理」の隙間を縫うように、暴力的なまでの純理性で音を紡いでいく。
それは、既存のジャズ理論に対する宣戦布告であり、同時に、僕への絶対的な「執着」の証明でもあった。
ローズの歪んだ音が、冷たい練習室の空気を熱く焦がしていく。
ライアンが、堪らずといった様子でサックスを口に咥えた。
マスミのドラムが、彼女の作り出す未知のグルーヴに吸い寄せられるように、正確無比なリズムを刻み始める。
(……なんだ、これは。僕が統制しているんじゃない。彼女の『ノイズ』が、このバンドの心臓を動かしている……!)
僕は、戦慄した。
僕が必死に守ろうとしていた「完璧なジャズ」が、彼女の奔放なピアノによって、より高次な「何か」へと変容していく。
エリートとしてのプライドが、心地よい音響の渦の中で溶けていくのを感じる。
ボストンの座標に縫い止められ、ニューヨークへ行けない絶望に燻っていた僕の魂が、今、このステージから放たれるフレーズによって、高く、遠くへと連れ去られようとしていた。
「……あは。ショーン。接続、完了。キミの譜面、美味しいよ」
メグが、鍵盤を叩きながら僕を見つめる。
その青い瞳は、僕の深淵を覗き込み、そこにある恐怖を笑い飛ばす。
十年前の航空機事故。冷たい海の感触。
それらが、彼女の音の洪水によって、一時的に洗い流されていく。
僕は、気づけばフルアコ・ギターを手に取っていた。
合図など、もう必要ない。
僕もまた、表現者として、この「壊れた青い傑作」と真っ向から激突しなければ、この場所で生きている意味がない。
セッションが最高潮に達した時、練習室のドアが乱暴に開かれた。
「ヘイ! お楽しみのところ悪いが、そこまでだ!」
現れたのは、シカゴ訛りの激しい熱血教育者、ハリセン・ミラー教授だった。
手には、その名の由来となった折り畳んだ楽譜束——「ハリセン」が握られている。
「ショーン・ハミルトン! シュタインがいなくなったからと言って、勝手な練習は認めんぞ! 特に、そこのメグ・ポッター! キミの演奏は楽譜への冒涜だ!」
「……あは。ハリセン、いい音させてるね。リズム、ちょっと走ってるけど」
「何をーっ!」
ハリセンが逆上し、メグに向かって突進する。
だが、僕はその前に立ちはだかった。
「……ミラー教授。彼女を止める権利は、あなたにはありません」
「なんだと、ハミルトン!」
「彼女の音楽は、楽譜を否定しているのではない。楽譜という『限界』を超えているんです。そして、このS・ビッグバンドを率いるのは、僕だ。不服があるなら、シュタインをニューヨークから連れ戻してくることですね」
僕は、自分でも驚くほど冷徹に言い放った。
ハリセンは顔を真っ赤にして絶句し、やがて「勝手にしろ! 後で理事長に報告してやるからな!」と叫んで去っていった。
練習室に、再び静寂が訪れる。
ライアンたちが、呆然とした顔で僕を見つめていた。
「……ショーン。お前、今……」
「……練習再開だ。ライアン、さっきのソロの入りが甘い。ポッター、キミもだ。パスタを食べたければ、僕を満足させる音を鳴らしてみせろ」
僕は、再び楽器を構えた。
メグが、僕の背中に視線を突き刺す。
「……あは。ショーン、かっこいい。接続、継続。もっと、ぐちゃぐちゃにしてあげる」
練習を終え、夜の街へ出ると、雪はさらに深く降り積もっていた。
僕は、隣を歩くメグの足元がおぼつかないのを見て、溜息をついた。
「……ほら、捕まってろ。転んで楽器を壊されたら困る」
僕は、コートの袖を彼女に差し出した。
メグは、待ってましたと言わんばかりに、僕の腕にぎゅっとしがみついてくる。
冷たいはずの空気の中に、彼女の体温が微かに混じる。
「……ショーンの腕、あったかい。メトロノームみたいに、正確な鼓動」
「……黙れ。キミの鼓動は、常に変拍子でうるさいんだよ」
僕は、ボストンの夜景を見渡した。
変わらない景色。動けない自分。
だが、この「野生の宝石」を繋ぎ止めるための「座標」であるならば、この凍てつくボストンも、そう悪くない場所のように思えた。
僕の目的地は、まだ遠い。
だが、この掃き溜めの中から、世界を震わせる「ブルー・ノート」を響かせることはできる。
「行くぞ、ポッター。今日は特製のトマトソースだ。……たっぷり食べさせてやるから、明日は今日以上のノイズを鳴らせ」
「……あは。ショーン。接続、無限大。パスタ、山盛りね」
雪を蹴立てて歩く僕たちの影は、街灯に照らされて、一つの歪な、だが完成された即興曲のように重なっていた。
ボストンの冬は終わらない。
だが、僕たちの「ブルー・チャター」——青い饒舌な音楽は、ここから世界を、そして僕自身を変えていく。
僕は、冷たい風に向かって、不敵な笑みを浮かべた。
明日もまた、このゴミ溜めで、最高の「接続」を試みるために。




