表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
39/78

氷下の奔流、あるいは「野生の宝石」を繋ぎ止めるための即興的ソロ・フライト

ボストンの冬は、静寂さえも刃物に変える。

深々と降り積もる雪は、世界のノイズを吸い込み、僕を「座標」へと縛り付ける冷たい檻だ。

だが、その檻の鍵を、あろうことか僕自身が投げ捨てようとしていることに、僕はまだ気づいていなかった。


「……あは。ショーン。雪、五線譜みたいに降ってるね」


隣を歩くメグ・ポッターが、無邪気な笑みを浮かべて空を仰ぐ。

その青い瞳には、僕が見ている「凍てつく絶望」など一ミリも映っていない。彼女に見えているのは、雪の結晶が空を切る速度から導き出される、誰も聴いたことのないポリリズムだけだ。


S・ビッグバンド。

シュタインが残した、ゴミ溜めの掃き溜めのようなアンサンブル。

その実質的なリーダーとして、僕は今、かつてないほどの高揚と、それ以上の苛立ちに焼かれていた。

原因は、隣でマングースのぬいぐるみを抱えながら鼻歌を歌う、この「壊れた青い傑作」だ。


練習室。

そこには、昨日の熱狂から冷めやらぬ「変人たち」が集結していた。

ライアンがサックスを磨き、マスミがスティックを回し、ローズが自分より巨大なウッドベースの陰で震えている。


「いいか、昨日の演奏はただの『暴発』だ。今日からは僕が、その暴発を論理という枠組みに収めてやる。一音でも僕の設計図から逸脱する奴は、即座にクビだと思え」


僕は冷徹な声を練習室に響かせる。

完璧な数学的秩序。それが僕の目指すジャズだ。

だが、僕の正面に座るメグだけは、僕の言葉を「心地よいBGM」程度にしか捉えていないようだった。


「……ショーン。キミの言葉、テンション・コードが多すぎて、時々接続が切れちゃうよ」


「……黙ってろ、ポッター。ピアノに向かえ」


僕は、彼女に一通のスコアを叩きつけた。

僕が徹夜で書き上げた、緻密なモーダル・ジャズの設計図。

自由奔放な彼女の感性を、あえて数学的な規則性の中に閉じ込めるための「檻」だ。


だが。

彼女がフェンダー・ローズの鍵盤に触れた瞬間、僕の「檻」は、紙屑のように無残に切り裂かれた。


「……違う! そこでその和音を置けとは書いていない!」


僕の怒号が響く。

だが、メグの指は止まらない。

彼女は楽譜を見ていない。ただ、僕が提示した「論理」の隙間を縫うように、暴力的なまでの純理性で音を紡いでいく。

それは、既存のジャズ理論に対する宣戦布告であり、同時に、僕への絶対的な「執着」の証明でもあった。


ローズの歪んだ音が、冷たい練習室の空気を熱く焦がしていく。

ライアンが、堪らずといった様子でサックスを口に咥えた。

マスミのドラムが、彼女の作り出す未知のグルーヴに吸い寄せられるように、正確無比なリズムを刻み始める。


(……なんだ、これは。僕が統制しているんじゃない。彼女の『ノイズ』が、このバンドの心臓を動かしている……!)


僕は、戦慄した。

僕が必死に守ろうとしていた「完璧なジャズ」が、彼女の奔放なピアノによって、より高次な「何か」へと変容していく。

エリートとしてのプライドが、心地よい音響の渦の中で溶けていくのを感じる。

ボストンの座標に縫い止められ、ニューヨークへ行けない絶望に燻っていた僕の魂が、今、このステージから放たれるフレーズによって、高く、遠くへと連れ去られようとしていた。


「……あは。ショーン。接続、完了。キミの譜面、美味しいよ」


メグが、鍵盤を叩きながら僕を見つめる。

その青い瞳は、僕の深淵を覗き込み、そこにある恐怖を笑い飛ばす。

十年前の航空機事故。冷たい海の感触。

それらが、彼女の音の洪水によって、一時的に洗い流されていく。


僕は、気づけばフルアコ・ギターを手に取っていた。

合図など、もう必要ない。

僕もまた、表現者として、この「壊れた青い傑作」と真っ向から激突しなければ、この場所で生きている意味がない。


セッションが最高潮に達した時、練習室のドアが乱暴に開かれた。


「ヘイ! お楽しみのところ悪いが、そこまでだ!」


現れたのは、シカゴ訛りの激しい熱血教育者、ハリセン・ミラー教授だった。

手には、その名の由来となった折り畳んだ楽譜束——「ハリセン」が握られている。


「ショーン・ハミルトン! シュタインがいなくなったからと言って、勝手な練習は認めんぞ! 特に、そこのメグ・ポッター! キミの演奏は楽譜への冒涜だ!」


「……あは。ハリセン、いい音させてるね。リズム、ちょっと走ってるけど」


「何をーっ!」


ハリセンが逆上し、メグに向かって突進する。

だが、僕はその前に立ちはだかった。


「……ミラー教授。彼女を止める権利は、あなたにはありません」


「なんだと、ハミルトン!」


「彼女の音楽は、楽譜を否定しているのではない。楽譜という『限界』を超えているんです。そして、このS・ビッグバンドを率いるのは、僕だ。不服があるなら、シュタインをニューヨークから連れ戻してくることですね」


僕は、自分でも驚くほど冷徹に言い放った。

ハリセンは顔を真っ赤にして絶句し、やがて「勝手にしろ! 後で理事長に報告してやるからな!」と叫んで去っていった。


練習室に、再び静寂が訪れる。

ライアンたちが、呆然とした顔で僕を見つめていた。


「……ショーン。お前、今……」


「……練習再開だ。ライアン、さっきのソロの入りが甘い。ポッター、キミもだ。パスタを食べたければ、僕を満足させる音を鳴らしてみせろ」


僕は、再び楽器を構えた。

メグが、僕の背中に視線を突き刺す。


「……あは。ショーン、かっこいい。接続、継続。もっと、ぐちゃぐちゃにしてあげる」


練習を終え、夜の街へ出ると、雪はさらに深く降り積もっていた。

僕は、隣を歩くメグの足元がおぼつかないのを見て、溜息をついた。


「……ほら、捕まってろ。転んで楽器を壊されたら困る」


僕は、コートの袖を彼女に差し出した。

メグは、待ってましたと言わんばかりに、僕の腕にぎゅっとしがみついてくる。

冷たいはずの空気の中に、彼女の体温が微かに混じる。


「……ショーンの腕、あったかい。メトロノームみたいに、正確な鼓動」


「……黙れ。キミの鼓動は、常に変拍子でうるさいんだよ」


僕は、ボストンの夜景を見渡した。

変わらない景色。動けない自分。

だが、この「野生の宝石」を繋ぎ止めるための「座標」であるならば、この凍てつくボストンも、そう悪くない場所のように思えた。


僕の目的地は、まだ遠い。

だが、この掃き溜めの中から、世界を震わせる「ブルー・ノート」を響かせることはできる。


「行くぞ、ポッター。今日は特製のトマトソースだ。……たっぷり食べさせてやるから、明日は今日以上のノイズを鳴らせ」


「……あは。ショーン。接続、無限大。パスタ、山盛りね」


雪を蹴立てて歩く僕たちの影は、街灯に照らされて、一つの歪な、だが完成された即興曲のように重なっていた。

ボストンの冬は終わらない。

だが、僕たちの「ブルー・チャター」——青い饒舌な音楽は、ここから世界を、そして僕自身を変えていく。


僕は、冷たい風に向かって、不敵な笑みを浮かべた。

明日もまた、このゴミ溜めで、最高の「接続」を試みるために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ