終焉と胎動のシンコペーション、あるいは青い毒薬が書き換えた冬の五線譜
ボストンの冬は、静寂さえも凍りつかせる。
深夜二時。バークリー音楽大学の練習棟を抜け、僕の視界を支配していたのは、街灯に照らされて不気味に明滅する雪の粒と、一時間前の「熱狂」の残滓だった。
耳の奥で、まだ鳴り止まない。
S・ビッグバンドの連中が叩きつけた、あの野蛮で、それでいて純粋なスウィング。
そして何より、僕の論理を嘲笑い、解体し、再構築してみせたメグ・ポッターの、ローズの歪んだ残響。
僕はアパートの階段を重い足取りで上りながら、自分の指先を見つめた。
完璧な数学的秩序こそがジャズだと信じていた僕の指は、今、これまでにないほど不規則なリズムで震えている。
それは恐怖ではなく、紛れもない興奮だった。
座標に縫い止められた僕の魂を、無理やり引き剥がそうとする暴力的なまでの「接続」。
「……あは。ショーン。まだ、音が溢れてるね」
背後から、影のようにメグがついてくる。
足の踏み場もないゴミ溜めの住人であり、世界を破壊する笑みを浮かべる青いサヴァン。
彼女の足取りは、積もったばかりの新雪を踏みしめる音さえも、複雑なポリリズムへと変えてしまう。
「……やかましい。少しは静かに歩けないのか、ポッター」
僕は、心臓の鼓動を悟られないよう、冷笑的な仮面を被り直す。
だが、僕たちの間に流れる空気は、確実に数時間前とは別のものに変質していた。
部屋に戻り、僕はルーティンのようにキッチンへ向かう。
自暴自棄になっていた日々を埋めるように、僕は再び「料理」という名の精密な作業に没頭した。
深夜に仲間に振る舞う「ハミルトン・特製パスタ」。
ニンニクを均等な厚さにスライスし、最高級のオリーブオイルで香りを引き出す。アルデンテに茹で上げられた麺を、正確なタイミングでソースと和える。
メグは、マングースのぬいぐるみを抱えたまま、僕の背中をじっと見つめている。
「接続」を試みる彼女の青い瞳が、僕の動作の一つ一つを解体していくのを感じる。
「……ショーンの作るご飯は、楽譜みたい。でも、今はちょっとだけ、ブルーノートが混ざってる」
「……黙ってろ。キミのような味覚の欠陥品に何がわかる」
だが、皿に盛られたパスタを無邪気に頬張る彼女の姿を見て、僕は認めざるを得なかった。
彼女の「ノイズ」がなければ、僕はこの冷たいボストンの地で、ただ完璧なだけの空虚な音を鳴らし続けていただろう。
翌朝。
学内の空気は、一変していた。
S・ビッグバンドのデタラメな演奏は、瞬く間に「事件」として学内を駆け抜けた。
エリートを自称するAバンドの連中が、僕たちを冷笑的な目で見つめる。
「あんなのはジャズじゃない」「ただの騒音だ」
だが、その言葉の端々には、自分たちが持ち得ない「爆発」に対する隠しきれない嫉妬が混じっていた。
「ショーン! 大変だぜ!」
ダイナー『レッド・ランタン』のバカ息子、ライアン・ミラーが、息を切らせて僕の元へ駆け込んできた。
彼の持つテナーサックスのケースには、昨日の熱演でついたと思われる新しい傷が刻まれている。
「シュタインのジジイ、本当に消えやがった! 理事長室に置き手紙一通残して、ニューヨークのストリップバーに飛んだらしい!」
「……やれやれ。あのエロジジイめ」
僕は溜息をついた。
ハンス・アクセル・フォン・シュタイン。
世界的なインプレサリオであり、僕に「譜面の外側にある魂」を叩き込んだ、救いようのない天才。
彼がこの「S」という火種を撒き散らしたのは、おそらく確信犯だ。
僕というエリートが、このゴミ溜めの中でどう足掻くか。それを楽しむために、彼は舞台だけを用意して姿を消したのだ。
「で、どうするんだよショーン? 監督役がいなきゃ、このバンドは解散だ。Aバンドの奴らも、せいせいしたって顔で笑ってやがる」
「……笑わせておけばいい」
僕は、窓の外に広がる冬の街を見据えた。
シュタインがいない。
それは、僕がこの「変人集団」を真に掌握するための、絶好の機会でもあった。
練習室。
昨日までの「お祭り」の熱気は消え、そこには重苦しい沈黙が漂っていた。
ドラマーのマスミ、ウッドベースのローズ。
誰もが、自分たちの拠り所を失った不安に顔を曇らせている。
「……あは。みんな、迷子の音色だね。設計図がなきゃ、何も弾けないのかな」
ピアノの前に座ったメグが、鍵盤を無造作に叩く。
不協和音。だが、その音には迷いがない。
僕は、バンドの最前列に立った。
手に持っているのは、かつてシュタインが使っていたような華やかな棒ではない。
ただ、僕自身の意志を伝えるための、鋭利な視線と、絶対的な論理。
「全員、楽器を持て。……練習を始めるぞ」
「ショーン……でも、ミルヒーはもう……」
「あんなジジイはどうでもいい。僕が、このバンドを再構築する」
僕は、メグに向かって顎をしゃくった。
「ポッター、先ほどの不協和音を、今度はセブンス・コードで展開しろ。ライアン、それに合わせてマイナー・ペンタトニックで咆哮しろ。マスミ、ポリリズムのキープを忘れるな」
静まり返っていた部屋に、再び「熱」が宿り始める。
それはシュタインが与えた気まぐれな娯楽ではなく、僕という「座標」を中心とした、新しい秩序の誕生だった。
(……見ているか、シュタイン。あんたが捨てたこのゴミ溜めから、僕は世界を塗り替える音を鳴らしてみせる)
僕は、ピアノの音色に自分の思考を「接続」させた。
飛行機の恐怖による絶望は、いつの間にか、目の前の音を支配するという狂気的な支配欲へと変換されていた。
メグが、僕を見て笑う。
それは、獲物を見つけた猛獣のような、残酷なまでに純粋な笑み。
「……いいよ、ショーン。キミの指揮(合図)に従ってあげる。でも、キミもこっちに来てよ。座標なんて、壊しちゃえばいいのに」
彼女のフェンダー・ローズが、猛烈な勢いで唸り始めた。
一瞬の静寂。
そして、冬のボストンを焼き尽くすような、S・ビッグバンドの第二章が幕を開けた。
ホールの廊下では、僕たちの音を聴きつけた学生たちが足を止めていた。
そこには、僕をライバル視するチャーリー・ハヤシや、冷笑を浮かべていたAバンドのメンバーもいた。
だが、今の僕には、彼らの視線などどうでもよかった。
僕が目指すのは、聖地ニューヨークでも、欧州の伝統でもない。
この場所、この「現在」という座標から、誰にも真似できないスウィングを響かせること。
「ライアン! もっと前へ出ろ! 魂がスウィングしていない!」
「おうよ! やってやるぜ、ショーン!」
テナーサックスの雄叫びが、氷点下の空気を切り裂く。
マスミのドラムが、大地を揺らす鼓動となる。
そして、メグのピアノが、僕の脳内に描かれた五線譜を、鮮やかに、残酷に、塗りつぶしていく。
僕は、確信していた。
この冬が終わる頃、ボストンの街は、僕たちの奏でる「ブルー・ノート」によって、二度と元の姿には戻らなくなるだろう。
「……行くぞ、欠陥品共。世界が腰を抜かすような音を、叩き込んでやる」
僕は、激しいアンサンブルの渦中で、初めて心からの笑みを浮かべた。
ボストンの冬はまだ始まったばかりだが、僕たちの胸の中に灯った青い炎は、もう、誰にも消すことはできない。




