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泥濘に咲くブルーノート、あるいは「教育」という名の調律

ボストンの冬が、肺の奥まで凍てつかせる。

吐き出す息は白く、鋭い。この街の空気は、理論と技術を研ぎ澄ませるには最適だが、凍りついたトラウマを溶かすにはあまりに冷たすぎる。


第3練習室から漏れ聞こえるのは、耳を塞ぎたくなるような不協和音だった。

いや、不協和音ですらない。それは、音楽という名の形を借りた「死に損ないの叫び」だ。


「……やめろ。全員、音を止めろ!」


僕の怒号が、ひび割れた壁に跳ね返る。

テナーサックスのライアンが、不機嫌そうにマウスピースを離した。ドラムのマスミが、アフロヘアを揺らしながら不安げに僕を見つめる。


「ショーン、そんなに怒んなくてもいいじゃない。アタシたち、一生懸命やってるわよ?」


「一生懸命? 笑わせるな。マスミ、君のドラムはメトロノームとしては優秀だが、音楽としては死んでいる。ライアン、君のサックスはただの騒音だ。エフェクターで誤魔化すなと言ったはずだ」


僕は、手にしたスコアを譜面台に叩きつけた。

ミルヒー……あのエロジジイが残していった、この「S・ビッグバンド」。

正規のAバンドから溢れた、落ちこぼれたちの掃き溜め。

僕は、このゴミ溜めの王になれというのか。あの老いたインプレサリオは、ニューヨークへ消える間際に、僕にこの呪いを押し付けていった。


「……あは。ショーン、そんなに眉間に皺寄せると、コードが濁っちゃうよ」


ピアノの椅子に座り、マングースの手袋を弄んでいるメグ・ポッターが、場違いに明るい声を出す。

彼女だけは、この殺伐とした空気の中でも「自分」を失わない。いや、最初から自分以外の何かを気にする機能が壊れている。


「ポッター、君もだ。今のバンプ、何だ。理論的に説明してみろ」


「えー、説明? ……なんか、こう、雪が溶けて地面がぐちゃぐちゃになった時みたいな、『じゅわっ』とした感じ?」


「……二度と口を開くな。音楽で語れ」


僕は、自分の心臓が早鐘を打つのを感じていた。

苛立っている。何に? この無能なメンバーに? それとも、彼らを掌握しきれない自分自身に?

違う。僕は、恐れている。

この「座標」に縫い止められ、どこにも行けない僕が、彼らという「重り」を引き連れて、さらに深く沈んでいくことを。


その時だった。


「——そこまでだ、ハミルトン!」


練習室の重いドアが、蹴破るような勢いで開かれた。

現れたのは、折り畳んだスコアを武器のように握りしめた男。

ピアノ科教授、ハリセン・ミラーだ。


「ミラー教授……」


「ハミルトン、キミは何をしている。S・ビッグバンドの練習は、学長から中止の要請が出ているはずだ。シュタインがいない今、このバンドはただの騒音源に過ぎん」


「中止? 誰がそんなことを。僕は、このバンドの統括を任されています」


「任されている? キミのような、飛行機にも乗れない臆病者に何ができる! キミの父親マックスが泣いているぞ!」


ハリセンの言葉が、僕の急所を的確に穿つ。

父の名。僕を縛る、もう一つの呪縛。

僕は、拳を握りしめた。


「……出て行ってください、教授。僕たちは、練習の途中です」


「認めん! 特に、そこのポッター! キミはピアノ科の面汚しだ。楽譜も読めないサヴァンなど、バークリーには不要だ!」


ハリセンの手にした「ハリセン」が、空を切ってメグの譜面台を叩く。

メグは、ただ無邪気に首を傾げていた。その青い瞳に、恐怖の色はない。ただ、好奇心だけが揺れている。


「……ハリセン、そんなに叩いたら、譜面が泣いちゃうよ。ほら、ここ、もっと優しくスウィングしなきゃ」


メグが、不意にフェンダー・ローズの鍵盤に触れた。

一音。

ただの一音。

だが、その音に含まれる倍音の豊かさが、練習室の凍りついた空気を一瞬で塗り替える。


「な……」


ハリセンの動きが止まる。

メグは、そのまま流れるようにコードを紡ぎ始めた。

それは、僕が教えた理論でも、ハリセンが信奉する伝統でもない。

ケープコッドの潮風と、ボストンの冷気と、彼女の脳内に渦巻くカオスが混ざり合った、唯一無二の「青いノイズ」だ。


「……マスミ、入れ。4ビートでいい。ライアン、彼女のバッキングに回れ。エフェクターは切るな。そのノイズを、彼女の音にぶつけろ」


僕は、直感的に命じていた。

論理ではない。数式ではない。

今、この場所で、この欠陥品たちが共鳴することでしか生まれない音楽が、確かにそこにあった。


マスミのスティックが、正確無比なリズムを刻み始める。

ライアンのテナーが、野太い咆哮を上げる。

ローズの重低音が、床を揺らす。


「待て! 何を……こんなものはジャズじゃない! ただの無秩序だ!」


ハリセンが叫ぶが、その声は音の奔流に飲み込まれていく。

僕は、フルアコ・ギターを手に取った。

彼女が作り出した「野生の庭」に、僕の論理という名の「楔」を打ち込む。

対立し、反発し、そして融合する。

メグの瞳が、僕を捕らえた。

「接続」された、と感じた。


「……あは。ショーン。もっと、ぐちゃぐちゃにして。僕たちの音楽で、この部屋を溶かしちゃおう」


音楽は、暴力だ。

古い殻を破壊し、新しい命を吹き込む、残酷なまでの純粋さ。

ハリセンは、いつの間にか黙り込んでいた。

彼の握りしめた「ハリセン」が、震えている。

それは怒りではなく、理解してしまったことへの戦慄。

彼の中に眠っていた「ブルーノートの真理」が、メグの奔放なプレイによって、無理やり叩き起こされたのだ。


数分間の狂騒の後、音は唐突に途絶えた。

残ったのは、高揚した団員たちの荒い呼吸と、熱を帯びた練習室の空気だけだ。


「……帰れと言ったはずです、教授」


僕は、汗を拭いながら、ハリセンを冷たく見据えた。


「……ハミルトン。ポッター。……キミたちは、自分が何をしているか分かっているのか」


ハリセンの声は、もう震えていなかった。

そこにあるのは、教育者としての、敗北と期待が入り混じった奇妙な響きだ。


「……学長には、僕から話しておこう。だが、条件がある。学内祭のコンテストで優勝できなければ、このバンドは即解散だ。そして、ポッター。キミは僕の特別指導を受けてもらう。……その『野生』を、プロの世界で通用する武器に変えるためにな」


ハリセンは、それだけ言い残すと、足早に練習室を去っていった。

ドアが閉まる音。

静寂。

そして、ライアンの雄叫びが爆発した。


「やったぜ! ハリセンを黙らせた! 俺たち、やれるぞ、ショーン!」


「……浮かれるな。優勝できなければ終わりだと言われただろう。明日からは、今の10倍の負荷をかける。覚悟しておけ」


僕は突き放すが、胸の奥では、かつてないほどの熱が燻っていた。

ボストン。この座標。

動けないと思っていた場所で、僕は今、新しい音楽という名の翼を手に入れようとしている。


「……ショーン。お腹空いた。パスタ、作ってくれる?」


メグが、僕のコートの裾を引く。

その青い瞳は、僕の魂を容易く見透かして、笑う。


「……やれやれ。欠陥品同士、仲良くゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」


僕は、溜息をつきながらも、彼女の手を振り払わなかった。

凍てつく冬はまだ続く。

だが、僕たちの「ブルー・チャター」は、もう誰にも止められない。


「行くぞ、ポッター。……今日は、おなら・グルーヴの練習はなしだ。もっとマシな曲を聴かせてやる」


「……あは。ショーン、大好き」


雪の降る夜。

僕たちは、不格好なリズムを刻みながら、アパートへの道を歩き出した。

座標は、もう僕を縛る鎖ではない。

それは、ここからどこへでも行けるという、確かな出発点になったのだ。

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