表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
36/80

終焉のファンファーレ、あるいは「座標」を溶かす青い熱狂のオーバーチュア

ボストンの冬は、慈悲を知らない。

窓の外では鋭利な氷の粒が叩きつけられ、世界を白く塗り潰そうとしている。

だが、バークリー音楽大学の薄暗いホールの中だけは、物理法則を無視した熱狂が渦を巻いていた。


ステージの上には、僕が「選りすぐりの変人集団」と呼んだS・ビッグバンドの面々が並んでいる。

本来なら、大学のエリートたちから失笑を買い、静かに解散していくはずだった、掃き溜めのオーケストラ。

それが今、何百人という聴衆の視線を、その圧倒的な存在感で釘付けにしていた。


僕は、最前列のシートに深く沈み込み、彼らの姿を冷徹な視線で射抜く。

隣には、相変わらず所在なげに、だがどこか楽しげに、汚いマングースのぬいぐるみを抱えたメグ・ポッターが座っている。


「……あは。ショーン。始まるよ。世界が、壊れる音」


彼女は、青い瞳にステージの照明を反射させながら、無邪気に笑った。


幕が開くと同時に、空気が震えた。

一発目の音。

それは、整然とした音階の羅列ではなく、剥き出しの生命力が咆哮を上げたかのような、荒々しいスウィングだった。


ライアン・ミラーが、テナーサックスを天に突き出し、魂を削るようなソロを叩きつける。

かつての「ロック・サックス」の面影はない。そこにあるのは、ジョン・コルトレーンが到達したような、求道的で、それでいて破壊的なジャズの真理だ。

マスミ・オクヤマのドラムが、人間メトロノームの異名を証明するように、変拍子の荒波を完璧な精度で繋ぎ止めている。

ローズ・サミュエルが、自分より巨大なウッドベースを必死に抱え、地の底から響くような重低音を鳴らす。


彼らを導いているのは、僕ではない。

ましてや、どこぞのストリップクラブで野球拳に興じているハンス・シュタインでもない。

彼ら自身の内に秘められた、音楽への飢餓感。

「落ちこぼれ」というレッテルを貼られ、それでも音を鳴らすことを止められなかった、表現者としての執念。


僕は、自分の心臓が、彼らの鳴らすポリリズムに同期していくのを感じた。

(……認めよう。シュタインのジジイが仕掛けたこの「遊び」は、僕が思い描いていた完璧な数学的ジャズを、遥かに凌駕する熱量を持っている……!)


エリートとしてのプライドが、心地よい音響の渦の中で溶けていく。

ボストンの座標に縫い止められ、ニューヨークへ行けない絶望に燻っていた僕の魂が、今、このステージから放たれる奔放なフレーズによって、高く、遠くへと連れ去られようとしていた。


演奏が最高潮に達した時。

ライアンが、事前に打ち合わせていなかった、予測不能なインプロヴィゼーションを仕掛けてきた。

それは、緻密なスコアを破り捨て、自分たちの衝動に従うための「宣戦布告」だった。


「……あは。ライアン、飛んだ。接続、完了」


メグが膝の上で指を動かす。

彼女には見えているのだ。音の粒子が衝突し、新しい宇宙が誕生する瞬間が。


僕は反射的に、自分が今この場に「聴衆」として座っていることに、耐え難い焦燥を感じた。

あの中に入りたい。

あの濁った、不完全で、それでいて奇跡のように美しいアンサンブルの中に、僕の論理を、僕の魂を投げ込みたい。


だが、僕はまだ、ここに留まっている。

十年前の航空機事故の記憶。冷たい海の感触。

それらが、僕の足を重く縛り付けている。


「……ショーン。怖いのは、飛んでいないからだよ。あの中には、空も海も、座標なんて何もないのに」


メグが、僕のコートの裾をぐいと引いた。

彼女の青い瞳が、僕の深淵を覗き込み、そこにある恐怖を笑い飛ばす。


「……わかっている。ポッター」


僕は、彼女の冷たい手を、払い退けなかった。


フィナーレ。

S・ビッグバンドの全員が、最後の一滴まで魂を搾り出すように、咆哮のような和音を奏でた。

ホールの静寂を切り裂き、聴衆は一瞬の空白の後、爆発的なスタンディングオベーションで応えた。


鳴り止ない喝采。

ステージの上で、ライアンが、マスミが、全員が、見たこともないような晴れやかな顔で笑っている。

それは、巨匠シュタインへの別れの挨拶であり、同時に、彼ら自身の新しい人生の「始まり」を告げるファンファーレだった。


「……終わっちゃったね。シュタインの、お祭り」


メグが、ぽつりと呟いた。

その声には、寂しさはなかった。

ただ、これから始まる、さらに巨大な「破壊」と「再構築」への期待だけが、青い瞳に宿っていた。


僕は、席を立った。

僕の目的地は、もう決まっている。

ボストンの冷たい夜気を切り裂き、このゴミ溜めの中で見つけた、不条理なほど美しい「ブルー・ノート」を、世界中に届けるために。


「行くぞ、ポッター。パスタを作ってやる。……特製だ。これからの地獄の練習を乗り切るためのな」


「……あは。接続、継続。ショーンの作るご飯、いっぱい食べるよ」


ホールの外に出ると、雪は止んでいた。

澄み渡った冬の星座が、僕たちの頭上で、まるで新しいスコアの音符のように輝いている。


僕は、まだ飛べない。

だが、この「壊れた青い傑作」が僕の隣にいる限り。

この場所に縫い止められていたはずの座標は、いつの間にか、無限の可能性を秘めた宇宙へと繋がっていた。


ボストンの冬は終わらない。

だが、僕たちの「ブルー・チャター」——青い饒舌な音楽は、ここから世界を、そして僕自身を変えていく。


僕は、冷たい風に向かって、不敵な笑みを浮かべた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ