真夜中のアンサンブル、あるいは泥濘の中で羽化を待つ聖者の行進
ボストンの凍てつく夜は、人間の傲慢さをあざ笑うかのように、音もなく理性を奪い去る。
外はマイナス10度の静寂。だが、僕が立ち尽くすこの「座標」——ゴミの山が地層を成すメグ・ポッターの部屋だけは、不気味なほどに沸騰していた。
「……あは。ショーン、来たんだ。接続、再開だね」
フェンダー・ローズの前に鎮座する少女、メグ・ポッターは、僕を一瞥して無邪気に笑った。
青白い肌。深淵を覗き込むような青い瞳。
彼女の手元には、僕が数時間前に手渡した、ビッグバンド用の緻密なスコアがあった。
それは僕が完璧な数学的論理で組み上げた、マイルス・デイヴィスへの挑戦状。いわば、僕というエリートの誇りそのものだった。
だが。
僕の目の前で、その「聖域」が蹂躙されていた。
「違う……そんなテンション・コードは書いていない……!」
僕の声は、部屋を支配する圧倒的な音の奔流にかき消された。
メグは、僕が指定した整然たるフレーズを、咀嚼し、解体し、見たこともないような歪な美しさを宿したノイズへと変容させていく。
彼女は楽譜を読んでいない。
ただ、僕が提示した「設計図」の行間から溢れ出す情緒だけを吸い取り、それをローズの濁った音色で再構築している。
「……設計図は、もう要らないよ、ショーン。君の頭の中にある『正しい音』なんて、全部食べてあげる」
彼女の指先が鍵盤を跳ねる。
それは、いかなる理論でも説明のつかない、まさに世界を破壊するためのポリリズムだった。
完璧主義者としての僕のプライドは、彼女の弾く一音一音によって無残に削り取られていく。
だが——同時に、僕の心臓は、抗いがたい歓喜に打ち震えていた。
僕たちは今、袋小路にいた。
巨匠シュタインが残していった「S・ビッグバンド」という名の、選りすぐりの変人集団。
場所を奪われ、期待を奪われ、あとは静かに腐っていくのを待つだけの落ちこぼれたち。
ライアンやマスミは、それでも自分たちの音を鳴らそうと足掻いている。
だが、彼らを導くべき僕自身が、自分の音楽の正体を見失いかけていた。
僕は、ピアノに向き直る。
理屈じゃない。
理論じゃない。
ただ、目の前のこの「壊れた青い傑作」を御するために、僕自身の魂を鍵盤に叩きつける。
「……いいだろう。ポッター、勝負だ。君のそのデタラメな解釈を、僕の論理で屈服させてやる」
僕がピアノを鳴らした瞬間、空気の色が変わった。
僕の弾くビル・エヴァンス風の知的で冷徹な和音に対し、メグは即座に、咆哮のようなブルーノートで応戦する。
ジャム・セッション。
いや、これはもはや、互いの存在価値を賭けた殺し合いに近い。
(……なんだ、これは。僕の音が、彼女のノイズに誘われて、かつてないほど「自由」に踊り始めている……!)
僕は、自分の中にあった「境界線」が崩壊していくのを感じた。
エリートとして、サラブレッドとして、常に「正解」を求めてきた僕の指が、今はただ、彼女が作り出す未知のグルーヴを追いかけ、それを凌駕しようと狂奔している。
飛行機の恐怖も、ボストンの座標に縫い止められた絶望も、すべてがこの圧倒的な音響の渦に飲み込まれていく。
「……あは。聞こえるよ、ショーン。君の心臓、メトロノームみたいに、正確で、それでいて、泣いてる」
メグの瞳が、青い燐光を放つ。
彼女の指が、僕のバッキングを逆手に取り、一気に転調を仕掛けてきた。
『My Funny Valentine』。
甘いラブソングであるはずのその曲が、彼女の手にかかれば、深夜の底で蠢く怪物の慟哭へと変貌する。
僕は反射的に、フルアコ・ギターを手に取った。
ギブソンの硬質な弦を弾き、彼女の挑発に鋭いカッティングで応える。
どれくらいの時間が経過しただろうか。
練習室の壁を隔てて、廊下にはいつの間にかS・バンドの連中が集まっていた。
ライアンがサックスを抱え、マスミがスティックを握り、ローズが自分より巨大なウッドベースに寄り添っている。
彼らは、僕たちの「共鳴」を、息を呑んで見守っていた。
誰も、一言も発さない。
ただ、ゴミ溜めのようなこの部屋から漏れ出す、地獄のような、それでいて天国のように美しいアンサンブルに、その身を浸していた。
「……ふう」
メグが、不意に演奏を止めた。
彼女は鍵盤に額を押し当て、肩で息をしている。
僕もまた、ギターを抱えたまま、全身から立ち上る熱気に意識を朦朧とさせていた。
「……ショーン。今の、最高に……美味しかった。キミとの、接続」
「……黙れ。相変わらず、耳が腐りそうな演奏だったよ。ポッター」
僕は、震える指先を隠すように、冷笑的な言葉を投げかけた。
だが、僕の視界は、先ほどまでの白黒のセピアから、鮮やかな色彩へと塗り替えられていた。
たとえ、このボストンという場所から一歩も動けなくても。
たとえ、世界の中心であるニューヨークに背を向けたままでも。
この場所で、この仲間たちと、そして、この「メグ」という不可解な才能と共に鳴らす音があれば。
それは、いかなる航空機よりも速く、僕たちを「まだ見ぬ場所」へと運んでくれる。
「ライアン」
僕は、ドアの向こうにいるテナーサックス奏者に声をかけた。
「……ああ、ショーン。聞いてたぜ。最高のジャムだった」
「明日、もう一度、全員を集めろ。練習場所なら、ここがある。シュタインがいなくても、僕たちが僕たちのスウィングを完成させるんだ。……いいか、一音でも外したら、全員レッド・ランタンで皿洗いだと思え」
「……へっ。言ってくれるぜ。やってやろうじゃねえか!」
ライアンが不敵に笑う。
ボストンの冬の空気が、初めて心地よく、僕の肺を満たした。
メグは、いつの間にか僕の隣に潜り込み、僕のコートの裾を掴んで離さない。
「……ショーン。お腹、空いた。パスタ、作って?」
「……勝手にしろ。ただし、君のその汚い手で僕のキッチンに触れるなよ」
僕は、彼女の青い瞳を見つめ返した。
そこには、僕が一生をかけても解明できないような、深淵なる音楽の真理が宿っている。
欠陥品同士、ゴミ溜めで共鳴する。
それもまた、一つの完成された芸術なのかもしれない。
ボストンの凍てつく夜はまだ明けそうにないが、僕たちの「ブルー・ノート」は、静かに、そして激しく、暗闇を切り裂き始めていた。




