黄金のアルト、あるいは廃墟の薔薇が凍土に降り立つための即興礼
地下室の空気が、いつもより重く停滞している。
メグが手にしたのは、使い古されたフェンダー・ローズだ。その表面には細かな傷が刻まれ、本来のつやは影を潜めているが、彼女が指を触れた瞬間、楽器はまるで息を吹き返したかのように鈍い光を放った。
「これは、私の中に残る唯一の『過去』」
メグの視線は遠い。彼女はボストンの凍土に、かつて自分がいた場所の残響を重ねている。それは、ショーンがバークリーで教わったような整理されたジャズの世界ではない。飢えと、喧騒と、ゴミ溜めの底でそれでも響き続けていた、剥き出しの生命力そのものだ。
彼女の指が鍵盤に触れる。
旋律は、理論に裏打ちされたショーンのギターとは対極にある。拍子を無視し、感情の奔流をそのまま音の粒子として放出するような、荒々しいインプロヴィゼーション。ローズ特有の歪んだ倍音が、地下室の石造りの壁に反響し、重なり合う。
僕は、その音に圧倒されていた。
かつての僕なら、この演奏を「調律不能のノイズ」と切り捨てていただろう。父から授かった完璧な楽譜の中には、存在し得ない響き。だが、今の僕には分かる。彼女が鳴らしているのは、音楽の墓標などではない。荒廃した世界において、唯一、生を肯定するための「祈り」なのだ。
「……メグ。その音は、僕の数学を殺そうとしているのか?」
僕はギターを抱え、彼女の音の隙間を埋めるようにコードを当てていく。不協和音。だが、それが不思議と心地よい。僕の理論が彼女の野生を包み込み、彼女の野生が僕の理論を侵食する。
「殺すんじゃないよ。キミのその窮屈な『座標』を、内側から溶かしてあげるだけ」
彼女のローズが最高域で唸る。ヴォリュームを限界まで上げた鍵盤から、凍土の夜空を貫く一筋の黄金の光のような音が迸った。
僕たちは、言葉すら交わさない。ただ、このゴミ溜めの地下室で、崩壊した世界を修復するための、あまりに未熟で、あまりに美しい即興礼を捧げている。
やがて音が止む。
地下室に満ちたのは、静寂ではなく、確かな熱量だった。
僕は知る。この少女と共にいる限り、僕はバークリーで失った「空」さえも、音楽の中で再構築できるはずだと。
廃墟に咲く薔薇のようなその音色は、僕たちの冷え切った日常を溶かす、最初の熱源となった。




