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23/82

終焉を告げるスウィング、あるいは聖者の行進を拒むための絶望的な即興曲

ボストンの冬は、理性を剥奪し、ただ純粋な生存本能だけを尖らせる。

吐き出す息は鋭利な刃となって、僕の頬を切り裂く。

そんな極寒の街路で、僕の隣を歩く「傑作のなり損ない」は、あろうことか鼻歌を歌っていた。


「……ショーン。……お星様が、……不協和音で、……泣いてる。……あれは、……サヨナラの合図サイン


メグ・ポッターが、真っ赤に凍てついた指先で冬の夜空を指差す。

その瞳は、深淵よりも深い青。

彼女の奏でる音と同様に、そこには一切の嘘も、そして救いもない。


「黙れ、ポッター。……それから、僕のコートのポケットに勝手に手を突っ込むな。不潔だと言っているだろう」


僕は冷徹に突き放すが、彼女は「あは」と、すべてを解体するような無垢な笑みを浮かべるだけだ。

この女は、僕が必死に構築した「音楽という名の檻」を、さも当然のように踏み越えてくる。

まるで、五線譜の上にぶち撒けられたインクの染みが、突然意志を持って歌い出すかのように。


バークリー音楽大学、第4練習室。

そこは、僕が背負わされた「重荷」たちの掃き溜めだった。


「S・ビッグバンド」。

巨匠シュタイン(ミルヒー)が、学内の底辺から拾い集めてきた、欠陥品たちの博覧会。


「ヘイ、ショーン! 見てくれよ、この新しいマウスピース! 音がバリバリ歪んで、まるで地獄の底から響く悲鳴スクリームみたいだろ!?」


ライアン・ミラーが、脂ぎった顔でテナーサックスを突きつけてくる。

僕は、彼の放つ安っぽい熱狂を一瞥し、即座に冷水を浴びせかけた。


「……ライアン。君の音はただの『騒音』だ。ジャズは論理と数学の極致だと言ったはずだ。計算できない感情など、アンサンブルを汚すだけの不純物でしかない」


「あぁ!? お前、またそれかよ! 音楽はソウルだろうが!」


一触即発の空気。

だが、その緊張を切り裂いたのは、背後から響いた、場違いなほど軽薄な笑い声だった。


「ふむ……ショーン。君は相変わらず、譜面の『外側』にある魂を恐れているね」


シュタインが、卑猥な笑みを湛えて立ち上がる。

その手には、どこから持ってきたのか、安酒の瓶とエロ本が握られていた。


「いいかい。今夜、僕はマドレーヌ(理事長)とクラブ『One More Kiss』で野球拳に興じる。だから、今日の練習は君に任せるよ。……ただし、課題だ。この『My Funny Valentine』を、メグをリードに据えて、君が自由に組み上げてみなさい」


「……なんですって?」


僕は絶句した。

メグをリードに?

楽譜も読めず、リズムさえも自分の気分次第で解体する、あの「野生の宝石」を、この精密なアンサンブルの核に据えろというのか。


「……ふふ。……ショーン。……僕様ちゃんと、……接続アクセス、……する?」


メグが、フェンダー・ローズの前に座り、僕を見つめる。

その瞳は、昨日よりもさらに透明で、僕の理性を引きずり込もうとしていた。


練習が始まった。

僕は、メンバーたちに僕が書いた、極限まで緻密なスコアを叩き込んでいく。


「ライアン、そこはもっとタイトに! 16分音符の裏を殺せ!」

「マスミ、ポリリズムが揺れている! 人間メトロノームの異名が泣くぞ!」

「ローズ、ベースの重心を下げろ! 楽器に弾かれるな、お前が楽器を支配しろ!」


僕は、自分という名の「絶対座標」を研ぎ澄ませ、彼らを統制していく。

僕の指先の動き一つで、音のうねりが、色彩が、残酷なまでに美しく整えられていく。

楽器を持たずとも、僕は彼らの「魂」をこの手で掌握している。

これこそが、僕の求める完璧なジャズの姿だ。


だが。


「……ちがう。……そこは、……もっと、……溶けるような、……青」


メグのピアノが、僕の完璧な理性を無視して、空間を切り裂いた。

彼女が奏でるローズの音色は、設計図には存在しない、歪んだテンション・コードを孕んでいる。

それは、僕が積み上げた数学的な美を、一瞬で「ノイズ」へと変容させる、聖なる冒涜だった。


「ポッター! 勝手なコードを弾くな! 譜面を読めと言っているだろう!」


「……ふえぇ。……譜面、……アリさんの行列が、……迷子になってる。……だから、……僕が、……おうちに、……帰してあげてるの」


彼女は、僕の怒声など聞こえていないかのように、鍵盤を愛撫し続ける。

その指先から零れ落ちる音は、ボストンの冬の海のように冷酷で、それでいて、泣きたくなるほどに甘美だった。


ライアンが、ニヤリと笑った。

「……おいショーン。こっちの方が、……『スウィング』してねえか?」


「……何だと?」


異変は、瞬く間に伝播していった。

メグの奔放なピアノに誘発されるように、ライアンのサックスが吠える。

マスミのドラムが、正確なクロックを超えて、野生の躍動を取り戻す。

ローズのベースが、深淵からの咆哮を上げる。


僕の支配が、指の間から砂のように零れ落ちていく。

僕が書いた完璧なスコアは、もはや彼女たちが踊り狂うための「薪」に過ぎなかった。


(……くそっ! なんだ、この音は……!)


僕は、全身を震わせるほどの戦慄を覚えた。

腹立たしい。吐き気がする。

だが、認めざるを得ない。

僕の論理が、彼女の「狂気」という名の原石に、無残に打ち砕かれている。


その時、僕は、自分の中に眠っていた「渇き」を思い出した。

かつて、イタリアの巨匠ヴァレンティがビッグバンドを導いた、あの圧倒的な光景。

あの時、僕は確かに「音楽」という名の奇跡に触れた。

だが、飛行機事故という「座標」に縛られた瞬間から、僕はいつの間にか、音楽を「自分を護るための盾」に変えてしまっていたのではないか?


僕は、手に持っていたスコアの束を、床にぶち撒けた。


(……いいだろう。……壊してやる。……僕のすべてを、僕自身の手で!)


僕は、メグのピアノが作り出す巨大な渦に、自ら身を投じた。

腕を振り、眼差しで命じ、彼らの狂気をさらに極限まで加速させる。

支配するのではない。

彼らの魂が吐き出す「毒」を、僕がさらに濃縮させ、一つの巨大な「祈り」へと昇華させるのだ。


「……あは! ……ショーン。……接続、……オーバーロード!」


メグが、狂ったように笑いながら、鍵盤を叩きつける。

最後の一音が、練習室の窓ガラスを震わせ、静寂が訪れた。


沈黙。

誰もが、自分の鼓動がスウィングしているのを感じていた。

窓の外では、雪が激しさを増し、すべてを白く塗り潰そうとしている。


「……やれやれ。欠陥品同士、仲良くゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」


僕は、汗を拭いながら、力なく呟いた。

だが、その声は、自分でも驚くほど自由だった。


練習の帰り道。

雪は深々と降り積もり、街の騒音をすべて奪い去っていた。


「……ショーン。……今日の、……おんがく。……とっても、……いい匂いがした」


メグが、僕のコートの袖を、今度はそっと、大切そうに掴んだ。


「……そうか。だが、明日はもっとタイトに仕上げる。……ポッター、君のピアノはまだ甘い。もっと徹底的に、僕の論理を、……そして僕自身を、壊してみせろ」


「……ふふ。……了解。……キミ、……大好き」


彼女の、残酷なまでに純粋な言葉が、冷たい夜気に溶けていく。

僕は、彼女の手を振り払わなかった。


僕たちの物語は、まだ第一楽章の序奏イントロを終えたに過ぎない。

だが、このボストンの雪原の下で、新しいジャズの産声が、確かに響き始めていた。


理性を捨て、狂気を纏い、僕たちは共鳴し続ける。

この「ボストン」という座標を、いつか音楽という名の翼で飛び越えるその日まで。

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