堕落した天使のポリリズム、あるいはゴミ溜めで鳴り響く聖餐
ボストンの冬は、肺の奥まで凍りつかせるような鋭利な沈黙を強いてくる。
だが、僕の隣を歩くこの「欠陥品」には、そんな物理法則など通用しないらしい。
「……ショーン。……お星様が、……Cメジャーセブンスで、……笑ってる」
メグ・ポッターが、真っ赤に鼻を凍らせながら空を指差した。
彼女の指先は、さっきまでクラブの鍵盤を蹂躙し、既存の音楽理論を完膚なきまでに解体していたものと同一だとは思えないほど、今はただ無垢で、危うい。
「……黙って歩け、ポッター。それから、そのマングースの着ぐるみを僕の方に向けるな。視界に入るだけで思考がノイズで埋まる」
僕は吐き出す溜息さえも冷酷な旋律へと変えながら、足早にアパートへの階段を上る。
背後から、ボストンの冷気に混じって、彼女特有の「接続」を求める気配が追いかけてくる。
僕たちは、同じ屋根の下、隣り合う「ゴミ溜め」へと帰還した。
翌日。バークリー音楽大学の練習室。
そこには、音楽の聖域とは程遠い、剥き出しの欲望と焦燥が渦巻いていた。
「ヘイ、ショーン! 見てくれよこのリード! 今朝の俺のテナーは、コルトレーンが乗り移ったかのような咆哮を上げてるぜ!」
ライアン・ミラーが、金髪のドレッドを振り乱しながら、僕にサックスを突きつけてきた。
彼の奏でる音は、確かにエネルギーに満ちている。だが、それは洗練とは程遠い、ただの「叫び」だ。
僕が求める完璧な数学的構造の中では、それはただの計算ミスでしかない。
「……ライアン。君の音はうるさすぎる。アンサンブルの重心を壊していることに気づかないのか」
「あぁ!? 音楽はソウルだろうが! 理屈で飯が食えるかよ!」
喧騒の只中で、シュタイン(ミルヒー)が、エロ本を片手にピアノの椅子に踏ん反り返っていた。
この、世界を動かしてきたはずの伝説のインプレサリオ。
彼が連れてきたのは、僕が最も忌み嫌う「混沌」そのものだった。
「ショーン。……君の音楽は、……とても、綺麗。……でも、……血が通っていないね」
シュタインが、濁った、しかしすべてを見透かすような瞳で僕を射抜いた。
「君は、楽譜という名の檻の中に、自分を閉じ込めている。……メグのように、もっと自由に、世界を壊してみたらどうだい?」
「……壊す? 音楽は秩序です。秩序のない音は、ただの騒音だ」
僕は、愛用のギブソンのネックを強く握りしめた。
僕が目指す「バンドリーダー」という立場は、すべての音を掌握し、完璧な調和を生み出すための支配者であるはずだ。
だが、シュタインが、そしてメグが突きつけてくるのは、その支配の及ばない「野性」だった。
「……ショーン。……これ、……あげる。……ケープコッドの、……しおタフィー」
練習の合間、メグが僕の背後に立っていた。
彼女の青い瞳は、昨日よりもさらに深く、透明な狂気を宿している。
「いらんと言ったはずだ。……ポッター、君はどうしてそんなに楽しそうに音を鳴らせるんだ? 楽譜も読めず、理論も無視して、ただ耳に届く音だけを信じて……」
「……たのしい、……から。……おんがくは、……あそび。……僕様ちゃんと、……あそぶの、……だいすき」
彼女は、僕の足元に転がっていた『スペース・ごろ太』のフィギュアを拾い上げ、慈しむように撫でた。
その瞬間、僕の中にあった「プライド」という名の防壁が、微かな音を立てて軋んだ。
僕は、幼少期のあの光景を思い出す。
イタリアの巨匠ヴァレンティが振った、あの圧倒的なビッグバンドのうねり。
あの時、僕は確かに「音楽」という名の奇跡に触れた。
だが、飛行機事故という「座標」に縛られた瞬間から、僕の音楽は、いつの間にか「逃避」のための計算式に成り下がっていたのではないか。
「……やれやれ。欠陥品に説教されるほど、僕は落ちぶれてはいないつもりだが」
僕は自嘲気味に笑い、彼女の手から塩タフィーを奪い取った。
口の中に広がる、海の香りとジャンクな甘さ。
それは、僕が忘れていた「生」の手触りだった。
その日の午後。
シュタインが突然、奇妙な提案を持ち出してきた。
「S・ビッグバンドの諸君! 今から抜き打ちのテストを行う! 課題曲は『My Funny Valentine』。ただし、ショーン。君はギターを置け。……君が、このバンドの『心臓』として、音を出さずに彼らを導いてみせるんだ」
「……何だと?」
僕は、耳を疑った。
音を出さずに、どうやってこの「ガラクタ」共をまとめろというのか。
だが、シュタインの目は本気だった。
僕は、メンバーたちの中心に立った。
ライアンのテナー。マスミのドラム。ローズのベース。
彼らは皆、僕を疑い、あるいは期待に満ちた瞳で見つめている。
僕は、深呼吸をした。
冷たい練習室の空気が、肺を満たす。
僕は、楽器を持たず、ただ自分の「両手」を空に掲げた。
(……見ろ。……聴け。……僕が描く、完璧な設計図を、お前たちの血に流し込んでやる……!)
僕の指先が、空間に「リズム」を刻み始めた。
それは音のない、しかし確かな鼓動だった。
僕は、一人一人の「目」を見て、彼らの中に眠る「音」を物理的に引き出していく。
ライアンのサックスが、これまでにない繊細なピアニッシモで鳴り始めた。
マスミのドラムが、正確無比なクロックを超えて、情熱的なスウィングを刻む。
ローズのベースが、大地の鳴動のようにアンサンブルを支え始めた。
音が、形を持って立ち上がる。
僕が振る腕の軌道に合わせて、空気が、色彩が、感情が、一つの巨大な「うねり」となって室内に満ちていく。
その時だった。
練習室の片隅で、メグ・ポッターが、ローズ(電子ピアノ)の前に座った。
彼女は、僕の「合図」など待っていない。
ただ、僕たちが作り出した「うねり」を感じ取り、そこに自分という名の「劇薬」を投入してきた。
不協和音。
しかし、それはアンサンブルを壊すものではなかった。
彼女の放つポリリズムが、僕の構築した完璧な秩序を「侵食」し、さらなる高みへと押し上げていく。
(……くるか。……ポッター!)
僕は、彼女の音を真っ向から受け止めた。
支配するのではない。
共鳴するのだ。
彼女の無秩序な美しさを、僕の論理という名の額縁で縁取り、世界で唯一の「傑作」へと昇華させる。
一瞬。
本当に一瞬だけ、練習室の壁が消えた。
ボストンの冷気も、バークリーの重苦しい空気も、すべてが消失した。
そこには、純粋な「音」の粒子と、互いの魂をぶつけ合う二人の「欠陥品」しか存在しなかった。
演奏が終わった時、シュタインは静かに、しかし力強く拍手を送っていた。
「……ブラボー、ショーン。君は今、初めて『音の外側』にあるものに触れた。……そしてメグ。君は、相変わらず救いようのない天使だね」
僕は、肩で息をしながら、自分の両手を見つめた。
指先が、まだ熱を持っている。
弦を弾いていないのに、僕の全身には、今まで感じたことのない強烈な「音楽」が拍動していた。
「……パスタ。……ショーン。……接続、……完了」
メグが、鍵盤から顔を上げ、無邪気に笑った。
その笑顔は、世界のすべてを解体し、再構築してしまうほどに、残酷で、愛おしかった。
「……ああ。帰るぞ、ポッター。……とびきり複雑で、……しかし最高に美味い夜を作ってやる」
ボストンの冬は、まだ入り口に過ぎない。
だが、僕たちの鳴らす「不協和音」は、もう誰にも止められない。
座標に縛られた僕の魂が、今、音楽という名の翼を得て、凍った夜空へと解き放たれようとしていた。
僕たちの物語は、まだ第一楽章の序奏を終えたに過ぎない。




