氷点下の熱狂(ジャム)、あるいは蹂躙される完璧主義者の矜持
ボストンの冬は、静寂を許さない。
吹き付ける雪が窓を叩く音すら、鋭いハイハットの刻みのように僕の鼓膜を逆なでする。
「……ふぅ」
僕は自室のソファに深く沈み込み、スコアを閉じた。
完璧に計算されたテンション・コード。緻密に配置されたホーン・セクションのボイシング。
僕が書くアレンジは、数学的に正しい。美しく、冷徹で、一点の曇りもない。
だが、その「正解」が、今の僕にはひどく虚しいものに思えた。
あの日、メグ・ポッターと鳴らしたあの音。
理論を嘲笑い、楽譜を灰にし、ただ「魂」だけを剥き出しにしてぶつけ合ったあの不協和音が、僕の血の中に毒のように回っている。
「……ショーン。……お腹、……グーって言ってる。……接続……していい?」
不意に、背後から腐った果実のような、あるいは深淵のような気配が忍び寄ってきた。
振り返るまでもない。
施錠を忘れたわけではない。彼女は、僕の平穏という名の城壁を、さも当然のようにすり抜けてくる。
「ポッター。……人の部屋を自分のゴミ溜めと勘違いするなと言ったはずだ。それに、今は午前二時だぞ」
「……二時は、……三時の、一時間前。……だから、……パスタ、……たべたい」
青白い肌。死線のような青い瞳。
メグは、僕の愛用のギブソンの隣に、まるで捨てられたぬいぐるみのように座り込んだ。
彼女の指先が、弦に触れる。
一音。
ただの開放弦の音が、彼女が触れた瞬間に、宇宙の意志を孕んだ特別な響きへと変容した。
(……チッ)
僕は、舌打ちを一つしてキッチンへ向かった。
拒絶しても無駄だ。彼女は、僕が折れるまでそこに居座り、僕の思考をノイズで埋め尽くす。
それならば、手早く胃袋を黙らせる方が建設的だ。
翌朝。
バークリー音楽大学の練習室には、地獄が顕現していた。
「ノォーウ! ライアン! 君のサックスは、まるで恋に破れた去勢済みの犬だ! もっとこう、燃えるような、淫らな、それでいて聖母のような音が出せないのかね!?」
ハンス・アクセル・フォン・シュタイン(ミルヒー)が、派手なシャツを翻しながら、テナーサックス奏者のライアン・ミラーを怒鳴りつけていた。
その後ろでは、アフロヘアーを揺らしたドラマーのマスミが、恋焦がれるような瞳でシュタインを見つめている。……いや、視線の先は僕か。寒気がする。
「ショーン! 君もだ! ギターを弾きながら、何をそんなにスカした顔をしている! 君の背負うべき『音の責任』は、まだ譜面の外側にある魂を捕まえていない!」
「……シュタイン。僕は僕の役割を果たしている。アンサンブルを壊しているのは、貴方の気まぐれな要求の方だ」
僕は、冷徹に言い放った。
この『S・ビッグバンド』。
シュタインが拾い集めた「ガラクタ」たちの集団。
リードを噛み砕くような荒削りなライアン。
機械のように正確だが、時折、過剰な情動をドラムに叩き込むマスミ。
巨大なベースに振り回されているローズ。
彼らをまとめ上げ、一つの「音楽」へと昇華させるのは、並大抵の労力ではない。
「ふむ。……やはり、君には『破壊』が必要なようだね」
シュタインが、卑猥な笑みを浮かべた。
嫌な予感が、背筋を走る。
「ショーン。今日の練習はここまでだ。今夜、クラブ『One More Kiss』に来なさい。そこで、君に本当のスウィングを教えてあげよう」
夜の帳が下りたボストンの街角。
ネオンサインが、凍ったアスファルトに毒々しい色を落としている。
僕は、指定されたクラブの重い扉を開けた。
タバコの煙と、安物のバーボンの匂い。
そして、腹に響くような重低音。
ステージの上では、シュタインが満面の笑みで、数人の女性たちと「野球拳」に興じていた。
「……帰るぞ」
僕が背を向けた、その時だった。
ピアノの音が、空間を切り裂いた。
フェンダー・ローズの、ひどく歪んでいて、しかしどこまでも透明な音色。
客席の隅。
照明の当たらない影の中で、メグ・ポッターが鍵盤を撫でていた。
彼女の周りには、使い古された『スペース・ごろ太』のフィギュアと、ケープコッドの塩タフィーの空き袋が散らばっている。
彼女が弾いていたのは、ジャズ・スタンダードの『Round Midnight』。
だが、それは僕が知っている曲とは似て非なるものだった。
メロディは解体され、リズムはポリリズムの渦に飲み込まれ、それでもなお、曲の核心にある「夜の孤独」が、鋭利な刃物となって聴衆の胸を突き刺す。
「……あ、……ショーン。……みつかった」
メグが、演奏を止めることなく、僕を見た。
その瞳は、暗闇の中で青白く発光しているように見えた。
「……接続、……する? ……今夜の夜は、……とっても、深いよ」
彼女の指が、誘うように複雑なコードを紡ぎ出す。
僕は、吸い寄せられるように、自分のギブソンを取り出した。
理性が、これは無意味な行為だと叫んでいる。
だが、僕の指先は、彼女が提示する深淵に触れたくて、震えていた。
(……やってやる。……貴様のその、無秩序な音楽を、僕の論理で支配してやる……!)
僕は、アンプのスイッチを入れた。
真空管が熱を持ち、僕の意志を電子の奔流へと変える。
ジャム・セッションが始まった。
メグのピアノは、ボストンの冷気そのものだ。
予測不能で、暴力的なまでに美しい。
僕は、彼女が放つ「ノイズ」の一つ一つを拾い上げ、即座にカウンターの旋律を構築していく。
ぶつかり合い、削り合い、火花を散らす。
それは演奏という名の、殺し合いに近い対話だった。
シュタインの野球拳も、酔っ払いの罵声も、すべてが遠のいていく。
この空間には、僕と彼女。
そして、歪んだローズの音色と、フルアコの渇いた響きしかない。
「……はは、……あはははは!」
メグが笑う。
無邪気で、残酷な、世界の終わりを祝うような笑み。
彼女のピアノが、さらに加速する。
僕の構築した論理の壁を、彼女の旋律が軽々と飛び越えていく。
(……もっとだ。……もっとこい、ポッター……!)
僕は、自分でも驚くような力で弦をかき鳴らしていた。
指先が熱い。
心臓が、今まで経験したことのないリズムでスウィングしている。
完璧な数学であるはずのジャズが、今、僕の中で血の通った「怪物」へと変貌していく。
どれくらいの時間が経っただろうか。
最後の一音が、タバコの煙の中に溶けて消えた時、クラブの中には静寂さえもが重く降り積もっていた。
「……ふぅ」
僕は、ギターを置いた。
全身から、湯気が立ち上るような感覚。
メグは、鍵盤に額を押し当てたまま、小さく呼吸を繰り返している。
「……ショーン。……今日のパスタ、……きっと、……美味しいね」
「……ああ。……最高に毒々しいやつを作ってやるよ」
僕は、乱れた髪をかき上げた。
シュタインが、ステージの上から満足げに頷いているのが見えた。
彼が教えようとした「スウィング」が何だったのか、今の僕には少しだけわかる気がした。
それは、譜面の外にあるのではない。
自分という檻を壊し、他者という深淵に飛び込んだ先にしかない、一瞬の閃光だ。
「さあ、帰るぞ、ポッター。……ゴミ溜めのアパートへ」
「……うん。……ショーン。……手を、……つないでもいい?」
「断る。……自分で歩け」
突き放しながらも、僕は彼女の歩調に合わせて、ゆっくりと夜の街へ踏み出した。
ボストンの冬は、依然として冷酷だ。
だが、僕の胸の中で鳴り続けているこの不実な残響が、凍った世界を確かに熱くさせていた。
僕たちのアンサンブルは、まだ始まったばかりだ。
秩序と混沌。
完璧と欠陥。
その狭間で、僕たちはこれからも、救いようのない音楽を鳴らし続けていく。
雪の結晶が、メグの青い瞳に落ちて、一瞬で溶けた。
その輝きを、僕は一生忘れないだろうと、不覚にも思ってしまった。




