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19/80

真夜中のアンサンブル、あるいは蹂躙される聖域

吹き付ける雪が窓を叩く音すら、鋭いハイハットの刻みのように僕の鼓膜を逆なでする。


「……ふぅ」


僕は自室のソファに深く沈み込み、スコアを閉じた。


完璧に計算されたテンション・コード。緻密に配置されたホーンのボイシング。論理とスウィングが数学的精度で組み上げられた、僕の「傑作」。


しかし。


今夜のリハーサルで、メンバーたちの顔に浮かんでいたものを、僕はまだ消化できずにいた。


混乱ではなかった。


萎縮だった。


僕のスコアが正しすぎて、彼らは息ができなくなっていた。


「……チッ」


舌打ちが、静かな部屋に響いた。


分かっていた。


分かっていながら、どうすればいいか、分からなかった。


論理を捨てれば、メグのようになる。


だが、俺はメグではない。


メグのように弾くことも、メグのように聴くことも、俺にはできない。


俺にできるのは、設計図を引くことだけだ。


しかし、その設計図が、人間の息を止めるのだとしたら。


「……ショーン」


不意に、背後から腐った果実のような、あるいは深淵のような気配が忍び寄ってきた。


振り返る前から、分かっていた。


メグ・ポッターだった。


青白い肌。死線のような青い瞳。マングースの着ぐるみを胸に抱えたまま、僕の部屋の窓枠に腰掛けていた。


「……なぜ窓から入ってくる」


「ドアが閉まってたから」


「鍵がかかっていたはずだ」


「かかってなかった」


「……俺がかけ忘れたのか」


「うん。……考えごとしてたんでしょ」


否定できなかった。


「何の用だ」


「用はない」


「ならば帰れ」


「帰りたくない」


「帰れ」


「……ショーン、今夜のリハーサル、見てた」


僕は、ソファから立ち上がった。


コーヒーメーカーに向かい、冷えきった残りを温め直す。


背中を向けたまま、聞いた。


「……それで?」


「みんな、すごく一生懸命だった」


「……一生懸命なのは知っている。問題はそこじゃない」


「うん。問題は、ショーンが、みんなを信じてないことだよ」


コーヒーメーカーが、静かに音を立てた。


「……信じていない、とは」


「ショーンのスコアはね、すごく完璧なんだけど、その完璧さの中に、『お前たちには任せられない』っていう気持ちが入ってる。だから、みんな、ショーンのスコアを弾くと、自分の音楽じゃなくて、ショーンの音楽を再現しようとしてしまう。……それが、怖いんだよ」


「……完璧なスコアを正確に再現することの、何が問題なんだ」


「問題は、完璧であることじゃなくて、その完璧さが、みんなの『失敗する余地』を奪ってしまうことだよ」


僕は、コーヒーカップを手に取ったまま、動きを止めた。


「……失敗する余地」


「うん。人はね、失敗できる場所でしか、本当の音は出せないと思う。失敗したら怒られる、失敗したらスコアを汚す、失敗したらショーンの設計図が崩れる。……そういう緊張の中では、音楽が呼吸できない」


僕は、ゆっくりとソファに戻った。


コーヒーを一口飲んだ。


苦かった。


「……お前は」


「うん」


「俺に、失敗を許容しろと言っているのか」


「失敗を許容するんじゃなくて、失敗を前提にすること。……ショーンのスコアが正しいのは分かってる。でも、その正しさは、みんなが自分の音を出し切った後で、初めて光るものだと思う。先に正しさを置いちゃうと、みんなの音が死んでしまう」


長い沈黙が落ちた。


窓の外で、雪が激しさを増していた。


「……メグ」


「うん」


「お前は、なぜそういうことが分かるんだ」


「私、ずっと失敗してきたから」


「……」


「理論を間違えて、拍を間違えて、先生に怒られて、バークリーでも落ちこぼれで。でも、失敗するたびに、次は違う音が出せた。失敗しない演奏は、前回と同じ演奏だよ。だから、失敗って、実は進化の証拠なんじゃないかって、思ってる」


僕は、しばらくその言葉を噛み砕いた。


「……俺は今まで、失敗を許さなかった」


「うん」


「メンバーにも、自分にも」


「うん」


「それが、間違いだったか」


メグは、少し考えてから答えた。


「間違いじゃないと思う。ショーンがそういう人だから、ショーンのスコアは完璧なんだよ。ただ、その完璧さをどう使うかが、変わればいいだけだと思う」


「どう変える」


「先に完璧なスコアを渡すんじゃなくて、みんなの音を聴いてから、その音に合わせてスコアを書く」


「……それは、アレンジャーとしての俺の仕事の順序が逆になる」


「うん、逆になる。でも、その方が、みんなの音が生きると思う」


僕は、カップを置いた。


スコアを、もう一度手に取った。


緻密なホーンのボイシング。計算されたテンション・コード。


これは正しい。


しかし、これは誰のための正しさか。


「……メグ」


「うん」


「明日、もう一度リハーサルをやる」


「うん」


「今夜、スコアを書き直す」


「うん」


「ただし、完成はしない」


メグが、きょとんとした顔をした。


「完成しない?」


「意図的に、余白を残す。未完成の部分を作る。そこを、メンバーたちが埋める」


メグの目が、少しずつ輝き始めた。


「……ショーン、それ、いいと思う」


「俺も、今思いついた」


「思いつくの早い」


「お前が言ったことから導き出しただけだ。手柄はお前にある」


「えへへ」


「笑うな。手柄とは言ったが、感謝はしていない」


「してるでしょ」


「していない」


「してる」


「……」


「ショーン」


「何だ」


「私も、明日のリハーサル、見てていい?」


「来るな」


「えー」


「邪魔になる」


「端っこにいるから」


「端っこにいても邪魔だ」


「じゃあ、廊下で聴いてる」


「……」


「廊下なら邪魔じゃないでしょ」


「……一言でも余計なことを言ったら、即刻追い出す」


「はーい」


メグが、満足そうに立ち上がった。


着ぐるみの袖を直しながら、窓の方に向かう。


「……なぜまた窓から出るんだ。ドアを使え」


「窓の方が、外の音がよく聴こえるから」


「意味が分からない」


「ショーンには分からなくていいよ」


メグが、窓を開けた。


冷たい風が、部屋に流れ込んだ。


雪の匂いがした。


彼女は窓枠に片足をかけながら、振り返って言った。


「ショーン」


「何だ」


「今夜書くスコア、楽しみにしてる」


「……見せない」


「明日のリハーサルで聴く」


「廊下からだろ」


「廊下からでも、ちゃんと聴こえるから」


メグが、窓の外に消えた。


雪の音だけが残った。


僕は、机に向かった。


スコアの白紙を、一枚取り出した。


ペンを持った。


最初の一音を、書き始めた。


今夜は違う。


完璧な設計図ではなく、余白のある地図を書く。


正解ではなく、可能性を書く。


それが、今夜の僕にできる、唯一の誠実さだった。


ボストンの夜が、深く、静かに更けていった。

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