真夜中のアンサンブル、あるいは蹂躙される聖域
吹き付ける雪が窓を叩く音すら、鋭いハイハットの刻みのように僕の鼓膜を逆なでする。
「……ふぅ」
僕は自室のソファに深く沈み込み、スコアを閉じた。
完璧に計算されたテンション・コード。緻密に配置されたホーンのボイシング。論理とスウィングが数学的精度で組み上げられた、僕の「傑作」。
しかし。
今夜のリハーサルで、メンバーたちの顔に浮かんでいたものを、僕はまだ消化できずにいた。
混乱ではなかった。
萎縮だった。
僕のスコアが正しすぎて、彼らは息ができなくなっていた。
「……チッ」
舌打ちが、静かな部屋に響いた。
分かっていた。
分かっていながら、どうすればいいか、分からなかった。
論理を捨てれば、メグのようになる。
だが、俺はメグではない。
メグのように弾くことも、メグのように聴くことも、俺にはできない。
俺にできるのは、設計図を引くことだけだ。
しかし、その設計図が、人間の息を止めるのだとしたら。
「……ショーン」
不意に、背後から腐った果実のような、あるいは深淵のような気配が忍び寄ってきた。
振り返る前から、分かっていた。
メグ・ポッターだった。
青白い肌。死線のような青い瞳。マングースの着ぐるみを胸に抱えたまま、僕の部屋の窓枠に腰掛けていた。
「……なぜ窓から入ってくる」
「ドアが閉まってたから」
「鍵がかかっていたはずだ」
「かかってなかった」
「……俺がかけ忘れたのか」
「うん。……考えごとしてたんでしょ」
否定できなかった。
「何の用だ」
「用はない」
「ならば帰れ」
「帰りたくない」
「帰れ」
「……ショーン、今夜のリハーサル、見てた」
僕は、ソファから立ち上がった。
コーヒーメーカーに向かい、冷えきった残りを温め直す。
背中を向けたまま、聞いた。
「……それで?」
「みんな、すごく一生懸命だった」
「……一生懸命なのは知っている。問題はそこじゃない」
「うん。問題は、ショーンが、みんなを信じてないことだよ」
コーヒーメーカーが、静かに音を立てた。
「……信じていない、とは」
「ショーンのスコアはね、すごく完璧なんだけど、その完璧さの中に、『お前たちには任せられない』っていう気持ちが入ってる。だから、みんな、ショーンのスコアを弾くと、自分の音楽じゃなくて、ショーンの音楽を再現しようとしてしまう。……それが、怖いんだよ」
「……完璧なスコアを正確に再現することの、何が問題なんだ」
「問題は、完璧であることじゃなくて、その完璧さが、みんなの『失敗する余地』を奪ってしまうことだよ」
僕は、コーヒーカップを手に取ったまま、動きを止めた。
「……失敗する余地」
「うん。人はね、失敗できる場所でしか、本当の音は出せないと思う。失敗したら怒られる、失敗したらスコアを汚す、失敗したらショーンの設計図が崩れる。……そういう緊張の中では、音楽が呼吸できない」
僕は、ゆっくりとソファに戻った。
コーヒーを一口飲んだ。
苦かった。
「……お前は」
「うん」
「俺に、失敗を許容しろと言っているのか」
「失敗を許容するんじゃなくて、失敗を前提にすること。……ショーンのスコアが正しいのは分かってる。でも、その正しさは、みんなが自分の音を出し切った後で、初めて光るものだと思う。先に正しさを置いちゃうと、みんなの音が死んでしまう」
長い沈黙が落ちた。
窓の外で、雪が激しさを増していた。
「……メグ」
「うん」
「お前は、なぜそういうことが分かるんだ」
「私、ずっと失敗してきたから」
「……」
「理論を間違えて、拍を間違えて、先生に怒られて、バークリーでも落ちこぼれで。でも、失敗するたびに、次は違う音が出せた。失敗しない演奏は、前回と同じ演奏だよ。だから、失敗って、実は進化の証拠なんじゃないかって、思ってる」
僕は、しばらくその言葉を噛み砕いた。
「……俺は今まで、失敗を許さなかった」
「うん」
「メンバーにも、自分にも」
「うん」
「それが、間違いだったか」
メグは、少し考えてから答えた。
「間違いじゃないと思う。ショーンがそういう人だから、ショーンのスコアは完璧なんだよ。ただ、その完璧さをどう使うかが、変わればいいだけだと思う」
「どう変える」
「先に完璧なスコアを渡すんじゃなくて、みんなの音を聴いてから、その音に合わせてスコアを書く」
「……それは、アレンジャーとしての俺の仕事の順序が逆になる」
「うん、逆になる。でも、その方が、みんなの音が生きると思う」
僕は、カップを置いた。
スコアを、もう一度手に取った。
緻密なホーンのボイシング。計算されたテンション・コード。
これは正しい。
しかし、これは誰のための正しさか。
「……メグ」
「うん」
「明日、もう一度リハーサルをやる」
「うん」
「今夜、スコアを書き直す」
「うん」
「ただし、完成はしない」
メグが、きょとんとした顔をした。
「完成しない?」
「意図的に、余白を残す。未完成の部分を作る。そこを、メンバーたちが埋める」
メグの目が、少しずつ輝き始めた。
「……ショーン、それ、いいと思う」
「俺も、今思いついた」
「思いつくの早い」
「お前が言ったことから導き出しただけだ。手柄はお前にある」
「えへへ」
「笑うな。手柄とは言ったが、感謝はしていない」
「してるでしょ」
「していない」
「してる」
「……」
「ショーン」
「何だ」
「私も、明日のリハーサル、見てていい?」
「来るな」
「えー」
「邪魔になる」
「端っこにいるから」
「端っこにいても邪魔だ」
「じゃあ、廊下で聴いてる」
「……」
「廊下なら邪魔じゃないでしょ」
「……一言でも余計なことを言ったら、即刻追い出す」
「はーい」
メグが、満足そうに立ち上がった。
着ぐるみの袖を直しながら、窓の方に向かう。
「……なぜまた窓から出るんだ。ドアを使え」
「窓の方が、外の音がよく聴こえるから」
「意味が分からない」
「ショーンには分からなくていいよ」
メグが、窓を開けた。
冷たい風が、部屋に流れ込んだ。
雪の匂いがした。
彼女は窓枠に片足をかけながら、振り返って言った。
「ショーン」
「何だ」
「今夜書くスコア、楽しみにしてる」
「……見せない」
「明日のリハーサルで聴く」
「廊下からだろ」
「廊下からでも、ちゃんと聴こえるから」
メグが、窓の外に消えた。
雪の音だけが残った。
僕は、机に向かった。
スコアの白紙を、一枚取り出した。
ペンを持った。
最初の一音を、書き始めた。
今夜は違う。
完璧な設計図ではなく、余白のある地図を書く。
正解ではなく、可能性を書く。
それが、今夜の僕にできる、唯一の誠実さだった。
ボストンの夜が、深く、静かに更けていった。




