氷の檻を噛み砕く、不実なアルペジオ
ボストンの冬は、僕という人間をどこまでも卑屈にさせる。
窓の外では、マサチューセッツ州の容赦ない吹雪が世界を白く塗り潰している。その冷気は、二重窓の隙間を抜けて、僕の指先を、そして心臓を凍り付かせようとしていた。
ギブソンのフルアコの弦を爪弾く。
渇いた、しかし緻密な計算に基づいた音が、暖房の効いた部屋に溶けていく。
だが、その音は僕を救ってはくれない。
(……クソ。またあの感覚だ)
目を閉じれば、十年前のあの惨劇が、解像度を上げて蘇る。
肺が潰れるような気圧の変化。
悲鳴を飲み込む金属の軋み。
そして、海面に叩きつけられる瞬間の、逃げ場のない衝撃。
僕は、エリートだ。
伝説のジャズ・ピアニスト、マックス・ハミルトンを父に持ち、パリで生まれ、ボストンの最高峰で学んでいる。
だが、その実はどうだ?
飛行機に乗れず、船にも乗れず、この凍てつく「ボストン」という名の座標に縫い付けられた、羽のない鳥。
本場ニューヨークの、ブルーノートの熱気さえ吸いに行くことができない、臆病な欠陥品。
「……ねえ、僕様ちゃん。……お腹、空いた」
不意に、僕の思考の檻を、ひどく間の抜けた声がノックした。
声の主を視界に入れる必要すらなかった。
隣室の住人であり、僕の平穏な生活を「ゴミ」と「騒音」で蹂躙し続ける、救いようのない野生の傑作。
メグ・ポッター。
彼女は、僕のアパートの床で、マングースの着ぐるみの頭を枕にして横たわっていた。
青白い肌。そして、すべてを見透かすようでいて、何一つ映していない「死線」のような青い瞳。
彼女が鍵盤に触れれば、僕が一生をかけて積み上げた理論など、一瞬でガラクタに変わる。
「……ポッター。勝手に入ってくるなと言ったはずだ。それに、今は飯の時間じゃない」
「……でも、……接続が、切れそう。……ショーンの作るパスタ。……あれがないと、僕の音、……死んじゃう」
「死ねばいいさ。……いや、死ぬのは僕の正気の方か」
やれやれ。
僕は溜息を吐き、キッチンへと向かう。
冷蔵庫にある余り物で、手際よくソースを作る。
ジャズは数学だが、料理もまた化学だ。
完璧な温度。完璧な乳化。
ニンニクの香りが、絶望的な冬の空気を塗り替えていく。
その翌日。
僕は、大学の廊下で『彼』に捕まった。
「オウ! ショーン! 素晴らしい、今日も君は美しく、そして不機嫌そうだ!」
ハンス・アクセル・フォン・シュタイン。
世界的なジャズ・インプレサリオ。
しかし、その実態は、学生の尻を追いかけ回し、クラブで野球拳に興じるエロジジイだ。
メグは彼を「ミルヒー」などと呼んで懐いているが、僕にとっては、これ以上なく厄介な疫病神でしかなかった。
「……シュタイン。何の用です。Sビッグバンドの練習なら、もう終わりましたよ」
「いやいや、大事な話さ。君、アレンジャーとして、このバンドをどうしたい?」
シュタインは、度の強い眼鏡の奥で、悪戯っぽく瞳を光らせた。
「どうしたいも何も……。あれは貴方が拾い集めた『ガラクタ』の集まりだ。僕はそれを、最低限聴ける音楽に調律しているだけに過ぎない」
「ふむ。……では、聞こう。君は、その『ガラクタ』の中に、自分の音が見えているかな?」
僕は、言葉に詰まった。
僕が作るのは、完璧なスコアだ。
一音の無駄もなく、すべてのテンション・コードが理路整然と配置された、美しい建築物。
だが、そこに「魂」はあるか?
昨日の演奏会で、メグが放ったあの一音。
僕の設計図を粉砕し、観客を熱狂させた、あの不純で、圧倒的に純粋な「ノイズ」。
「……僕に足りないのは、技術ではない。……場所だ」
僕は、搾り出すように言った。
「ここに留まっている限り、僕は僕の限界を超えられない。ニューヨークへ、あるいはパリへ行ければ、僕は……!」
「場所、かね?」
シュタインが、僕の言葉を遮るように笑った。
その笑みは、慈父のようでもあり、悪魔のようでもあった。
「君は、ボストンに閉じ込められているのではない。君自身が、その『完璧』という名の牢獄に、自分を閉じ込めているのだよ」
「……何だと?」
「見てごらん。隣にいる、あの『宝石』を。彼女は楽譜すら読めない。だが、彼女は宇宙を飛んでいる。君は、彼女を自分のアンサンブルに組み込むことを恐れているのではないかな?」
僕は、拳を握りしめた。
否定したかった。
あんな、風呂にも入らず、文字通り「壊れている」女を、僕が恐れるはずがない。
だが、僕の心臓は、嘘を吐くのが下手だった。
その夜。
大学の練習室で、僕はメグと向き合っていた。
ピアノ科教授ロバート・ウィルソンの計らいという名の、嫌がらせだ。
僕とメグに、二台のピアノによる連弾を命じたのだ。
曲は『My Funny Valentine』。
愛の歌だが、僕が用意したのは、どこまでも冷徹で、哀切なバラード・アレンジだった。
「……いいか、ポッター。僕のテンポに合わせろ。……一拍たりとも、勝手な真似は許さない」
「……わかってるよ。……ショーン。……繋がろう?」
演奏が始まる。
僕の左手が刻む、正確な4ビート。
右手が紡ぐ、凍った硝子細工のようなメロディ。
完璧だ。
僕は、僕の世界を統治している。
だが。
不意に、右隣のフェンダー・ローズが、唸りを上げた。
(……っ!?)
メグが、僕のバラードを、力強いファンク・ビートで殴りつけた。
歪んだ音色。
セブンス・コードに、僕が禁止したはずの不協和音が混ざり込む。
「ポッター! 止めろ! 何をしている!」
「……ショーン。……冷たすぎるよ。……もっと、……熱く、……壊して」
メグの指が、鍵盤の上を舞う。
それは、もはやピアノ奏法ではない。
打楽器のように、あるいは叫び声のように、彼女の感情が音となって溢れ出していた。
僕は、彼女を止めようとした。
罵倒し、演奏を中断させようとした。
だが、僕の右手は、勝手に彼女の音に「反応」していた。
(……なんだ、この音は)
泥臭く、しかしどこまでも透き通った。
ケープコッドの砂浜で聴いた、波の音。
ゴミ溜めのような部屋で、彼女が零していた、孤独な独り言。
それらが、ジャズというフォーマットを借りて、僕の心臓に直接流し込まれてくる。
「……はは」
乾いた笑いが、口から漏れた。
完璧なんて、クソ食らえだ。
理屈なんて、どうでもいい。
今、この瞬間、僕の音は間違いなく、彼女の音と混ざり合い、熱を持って加速している。
僕は、ギターを弾く時のような衝動で、ピアノを叩いた。
エリートの仮面が、剥がれ落ちていく。
計算ではない。
本能だ。
彼女が提示する混沌を、僕はさらに過激なポリリズムで迎え撃つ。
「……あ、……ショーン。……きた」
メグが、死線のような瞳を細めて笑う。
僕たちの演奏は、もはや練習室の壁を超え、ボストンの吹雪を溶かし、成層圏へと突き抜けていく。
そこに、恐怖はなかった。
飛行機がなくても、僕は今、間違いなく空を飛んでいた。
演奏が終わった後。
静寂の中で、僕たちは互いの呼吸音だけを聞いていた。
「……やれやれ。欠陥品同士、仲良くゴミ溜めで共鳴しようっていうのか」
僕は、額に浮いた汗を拭いながら、力なく言った。
メグは、ピアノの蓋に突っ伏したまま、満足げに喉を鳴らしている。
「……僕様ちゃん。……最高の、……お喋りだったね」
「……フン。喋りすぎて喉が渇いた。……帰りにタフィーでも買ってやる」
「……わーい。……メグ、……ショーンのこと、……もっと好きになった」
「……死ね、ポッター」
毒づきながらも、僕は確信していた。
僕の音楽は、もう以前の場所には戻れない。
このボストンという座標は、もはや僕を繋ぎ止める鎖ではない。
ここが、僕の、僕たちの「始まりの場所」になるのだと。
(……シュタイン。見ていろ)
僕は、窓の外の吹雪を睨み据える。
いつか、この音で、世界を震わせてやる。
ニューヨークも、パリも、関係ない。
僕が音を鳴らす場所、そこが世界の中心だ。
ボストンの冬は、まだ始まったばかりだ。
だが、僕の指先は、もう二度と凍り付くことはない。
僕たちの不協和音は、これからもっと激しく、美しく、世界を解体していく。その予感だけが、熱を持った残響となって僕の胸の奥で鳴り響いていた。




