氷下の灼熱、あるいは傲慢な王が跪くための即興詩
ボストンの二月は、ただ凍えるためだけにあるのではない。
それは、自らの無力さを骨の髄まで叩き込まれるための「静寂」なのだ。
チャールズ川を渡る凍てつく風は、バークリー音楽大学の練習室にこもる僕の、焼け付くような焦燥感さえも白く塗り潰そうとしていた。
「……ショーン。キミ、また呼吸を忘れてる。……ほら、譜面が真っ青だよ? 寒がって、震えてる」
メグ・ポッター。
僕のアパートの隣室に住む、野生の天才。
彼女は今、練習室の隅で『マングース』の着ぐるみから半身を出し、僕が書き上げたビッグバンド用のスコアを、まるで壊れた回路を覗き込むような目で見つめていた。
「……ポッター。……黙っていろ。……ジャズは、論理とスウィングの完全なる数学だと言ったはずだ」
僕は、ギブソンのフルアコを握りしめたまま、彼女を冷徹な視線で射抜いた。
だが、その視線は空を切る。
彼女の青い瞳は、僕の「言葉」ではなく、僕が引き連れている「ガラクタ」たちの音の残骸を、残酷なまでに正確に捉えていた。
『S・ビッグバンド』。
巨匠シュタイン(ミルヒー)が、学内の吹き溜まりから拾い集めた落ちこぼれ集団。
彼らが鳴らす音は、泥濘だ。
僕がどれほど精密にテンション・コードを配置しても、彼らが吹き鳴らした途端、それは下品な原色に塗り替えられ、音楽という名の美しき数式は崩壊する。
「ヘイ、ショーン! そんなにカリカリすんなよ。俺のサックスは、もっとこう……自由になりたがってるんだ!」
リード・テナーのライアン・ミラー。
彼は実家のダイナー『レッド・ランタン』の油の匂いを漂わせながら、またしても譜面を無視した下品なフラジオを鳴らす。
「……ミラー。キミの『自由』は、ただの『放縦』だ。……拍の裏側に潜む微細な重力を、キミは一度でも計算したことがあるのか?」
「あぁ!? 計算だの数学だの、そんなんでジャズが吹けるかよ!」
練習室の空気は、マイナス20度の冷気よりも鋭く、僕たちの間を切り裂いた。
完璧な指揮。完璧なアレンジ。
僕にはそれしかない。
飛行機恐怖症という鎖でボストンに繋ぎ止められた僕が、いつか世界へ飛ぶためには、この「座標」で神を黙らせるほどの完璧を証明し続けるしかないのだ。
「……一度、通してみるぞ」
僕は諦めにも似た溜息をつき、タクトを、あるいはギターのネックを構えた。
曲は、深夜の底に沈むようなジャズ・スタンダード――『My Funny Valentine』。
だが。
始まったのは、音楽ではなかった。
それは、互いのエゴが衝突し、火花を散らすだけの音の暴力だった。
ライアンのサックスが、繊細なメロディを土足で踏み荒らす。
マスミのドラムが、アフロヘアーを揺らしながら、僕が指定したポリリズムを勝手なサンバへと変換していく。
ベースのローズは、自分より巨大なウッドベースを必死に抱えながらも、その音色は恐怖に震え、僕の視線を恐れるように沈んでいた。
「……やめろ。……やめろ、と言っている!」
僕の声が、練習室に響き渡る。
音は止まった。
だが、そこに残ったのは、冷たい静寂ではない。
僕に対する、数えきれないほどの「拒絶」の気配だった。
「……ショーン様。……今の音、そんなに……醜かったかしら?」
マスミが、泣きそうな顔で僕を見上げる。
その瞳に宿る純粋な音楽への渇望を、僕は自分の「正解」で踏み潰していた。
その時だ。
「……ショーン。……場所、かわって」
メグが、ふらりとピアノの前に座った。
彼女は譜面台を無視し、僕が血を吐く思いで書き上げたスコアを、床に叩き落とした。
「……何を……!」
僕の怒声が響くより早く、彼女の指が、フェンダー・ローズの鍵盤に触れた。
「……接続、……開始。……ショーン。……本当の『青』を、見せてあげる」
爆発した。
それは、冷徹な数学の結晶であるはずの僕のジャズを、一瞬で溶かし尽くすような、暴力的なまでの即興。
メグが鳴らしたのは、ブルー・ノートの真理。
歪んだローズの音色が、練習室の壁を、天井を、そして僕の理性を、完膚なきまでに破壊していく。
彼女の音には、理論などない。
あるのは、ケープコッドの荒波に揉まれた幼少期の記憶と、僕という存在に対する、残酷なまでの「接続」への執着。
「……っ!」
僕は、自分の心臓が、かつてないほど激しくスウィングしていることに気づいた。
彼女の音が、僕の中に潜んでいた「獣」を呼び覚まそうとしていた。
メグのピアノに誘われるように、ライアンが、マスミが、ローズが、再び楽器を構えた。
だが、今度は違う。
彼らは僕の「指揮」を見ていない。
メグという特異点が放つ、圧倒的な「生命の奔流」に、ただ、ひれ伏し、共鳴しようとしていた。
「……あは。……あはははは!」
メグが、無邪気に笑う。
世界を解体するような、その笑み。
彼女が鳴らしたコードの裏側に、僕は見た。
譜面という名の設計図の外側に広がる、無限の、そして美しい暗闇を。
練習が終わった後、僕は一人、真っ暗な練習室に残っていた。
指先はまだ、メグの残像を追うように震えている。
「……敗北だな。……ハミルトン。……キミの、完敗だ」
僕は、壁に立てかけたギブソンの弦を、一本だけ弾いた。
そこに響いたのは、僕がずっと軽蔑していた、しかし、どうしようもなく「生きた」不協和音だった。
僕は、スマホを取り出した。
深夜二時。
普通なら寝ている時間だが、アイツなら起きているはずだ。
『……ポッター。……今すぐ、裏のダイナーに来い。……キミの鳴らした、あの『ノイズ』の正体を、……僕に教えろ』
メッセージを送った直後、僕の部屋の隣から、「わーぷ!」という奇妙な声と、ドタバタという足音が聞こえてきた。
僕は、コートの襟を立て、外へ出た。
ボストンの冬は、相変わらず僕の肌を削るように冷たい。
だが。
僕の胸の奥底には、メグが火をつけた、決して消えることのない灼熱が宿っていた。
完璧なエリートと、壊れた天才。
僕たちは、このゴミ溜めのようなボストンの片隅で、互いの魂を削り合い、共鳴し合っていく。
それが、どんなに歪なポリフォニーであったとしても。
「……やれやれ。……今夜のパスタは、……少しだけ、塩を多めにする必要があるな」
僕は、雪の上に残された僕たちの足跡を見つめ、自嘲気味に笑った。
傲慢な王が、一人の少女に跪くためのプレリュード。
それは、まだ始まったばかりだ。




