星を喰らう孤独、あるいは永遠の並行線が交差する瞬間のポラリス
パリの夜は、美しくも残酷な静寂を纏っている。
セーヌ川の波紋が街灯をバラバラに砕き、冷え切った石畳を濡らす。
先ほどまでの、あのアパートの一室での熱狂。メグと向き合い、壊れたローズの音色に浸食された記憶。それがまるで、深夜のクラブで浴びた強すぎる酒の余韻のように、僕の意識を揺らしていた。
メグ・ポッター。
マサチューセッツの潮風とゴミ溜めに育てられた、野生の傑作。
彼女は今、僕の隣で、僕が奪い取ったはずの自由をその小さな背中に背負い、静かに、だが確かな足取りで歩いている。
「……あは。キミ。……寒くない?」
その声には、かつて「接続」を求めて僕を追い詰めたときの凶気はない。ただ、冬の夜空に溶けて消えてしまいそうな、あまりにも無垢な透明感だけがあった。
僕はポケットの中で彼女の指先を握る力を強めた。
その華奢な指が、どれほど暴力的なまでに美しい音楽を奏でるのか、僕は誰よりも知っている。
彼女は、僕が築き上げてきた完璧な「数学としてのジャズ」を笑いながら解体し、その瓦礫の中から、僕すら見たことのない未知の輝きを掘り出す。
だが、代償はあまりにも大きい。
彼女は僕に追いつくために、自らの「楽しむための音楽」という聖域を捨てようとしている。
僕の書く、複雑怪奇なテンション・コードの迷宮に自ら志願して踏み込もうとしている。
「……メグ。後悔するなよ」
僕は吐き出した言葉が、白く冷たい霧となって消えるのを見つめた。
それは彼女に向けた警告であり、同時に、彼女を深淵へと引きずり込む自分自身への断罪でもあった。
「……あは。……キミってば、やっぱりカッコつけすぎ。……後悔なんて、ワープ航法で銀河の彼方に置いてきちゃったよ」
彼女は笑う。静謐で、それでいて残酷なまでに真っ直ぐな笑み。
その瞳の奥には、僕という「座標」を失うことへの恐怖と、それでもなお僕と共に墜ちていきたいという、狂おしいほどの執着が同居していた。
僕たちは、どちらも壊れている。
僕は過去の事故という鎖に縛られ、彼女は天才という名の孤独に焼かれている。
そんな二人が、パリという異郷の地で、一つのリズムを共有している。
これが「運命」という名の安いコード進行でないのだとしたら、一体これを何と呼べばいい?
不意に、遠くの教会から鐘の音が響いた。
それは、ある曲の冒頭を予感させるような、完璧な「D」の音だった。
「……聴こえるか、メグ」
「……うん。……キミ。……きれいな音。……でも、ちょっと寂しい音だね」
「それが、この街のベースラインだ。……伝統という重圧と、革新という飢え。その隙間に流れる、名もなき旋律」
僕は足を止め、彼女を正面から見据えた。
吸い込まれるような青い瞳。
その瞳の中に、僕の知らない「音楽」の続きが見えた気がした。
「お前は、僕のアレンジャーとしての最高傑作になる。……あるいは、僕の音楽人生を終わらせる死神だ」
「……あは。……キミ。……あたし、どっちでもいいよ。……死神さんになって、キミの魂、全部食べちゃうのも、悪くないかもね」
彼女は悪戯っぽく舌を出し、僕の胸元に顔を埋めた。
その温もりが、僕の凍てついた理性を少しずつ溶かしていく。
完璧な指揮棒を振るうことよりも、彼女の無秩序な即興に翻弄されることこそが、僕の求めていた真実だったのではないか。
雪が、さらに激しくなり始めた。
街灯のオレンジ色が、降り積もる白に反射して、まるで古いモノクロ映画のジャムセッションのような、幻想的な空間を作り出す。
僕たちは、もう戻れない。
ボストンのあのアパートにも、幼稚園の先生を夢見ていた穏やかな日常にも。
僕たちは、音楽という名の、血を流し続けなければ維持できない、美しくも醜い戦場を選んだ。
「……行こう。……僕の譜面が、お前の指に噛みつきたがっている」
「……望むところだよ。……キミ。……覚悟しててね。……あたしのピアノ、、今夜はとっても……お腹が空いてるんだから」
僕は彼女の肩を抱き寄せ、再び歩き出した。
パリの夜を支配する静寂が、僕たちの足音によって、新しいポリリズムへと書き換えられていく。
座標なんて、いらない。
理論なんて、灰にしてしまえばいい。
そこに、彼女の音が鳴り響き、僕の言葉が共鳴する場所があるのなら。
僕たちは、永遠の並行線のように見えて、実はその本質において、一つの「青」に収束していく存在だったのだ。
誰も知らない、誰も聴いたことのない、僕たちのためのジャズ。
その最初の一音を刻むために、僕たちは、夜の闇の向こう側へと、迷わずに足を踏み出した。
銀河の果てまで、このグルーヴが途切れることはない。
たとえ、その終着駅が、どんなに悲劇的な沈黙であったとしても。
僕は、僕の愛した「青い獣」と共に、この夜を踊り明かす。
それが、僕という人間が選んだ、唯一の「正解」だと信じて。




