終焉を告げるテンション・コード、あるいは再会という名の「裏切り」について
セーヌ川の淀んだ水面は、まるであの女の瞳のようだ。底知れず、冷たく、そしてどこまでも不透明な青。
僕は今、パリにあるメグのアパートの前に立っている。
ニューヨーク、ブルーノート・ワークショップ。そこでの「野生の宝石」の暴走と失踪から数日。僕の脳内では、解決の見えないポリリズムが狂ったメトロノームのように刻まれ続けていた。
扉を叩くべきか。
三日前、テオがメグの目撃情報を持ってきた。彼女はパリに戻っているらしい。だが、こちらへは来ない。
僕は来るべきか迷い、今ここにいる。完璧主義者のショーン・ハミルトンが、女のアパートの前で扉を叩く勇気を持てずにいる。なんと滑稽な。
ノックした。
しばらくして、扉が開いた。
「……あは。キミ。来ると思ってました」
変わっていなかった。青白い肌、死線のような青い瞳、ごろ太を左腕に抱えた無防備な姿。だが、何かが——微妙に違った。ニューヨークで何かを経験して戻ってきた人間の、目に見えない「密度」のようなものが、彼女の佇まいに加わっていた。
「……入るぞ」
「どうぞ」
部屋は相変わらずゴミの山だった。だが、その中に、見慣れない楽譜の束がある。びっしりと書き込まれたメモ。オクレールのカリキュラムの断片か。
「——ニューヨークで、何があった」
「いろいろ」
「もっと詳しく言え」
メグは、ごろ太の耳を引っ張りながら少し考えた。
「……オクレールさんの教える『正解』が、あたしには合わなかったんです。違う、というのは分かった。でも——彼の言っていることの意味は、分かりました。理論というのは、檻じゃなくて地図なんだって」
「地図?」
「キミの言葉で言えば——設計図は燃やすものじゃなくて、自分で書き直すものだって」
それは、思わぬ言葉だった。
「かつてのお前は、設計図など要らないと言っていた」
「知ってます。でも——キミがいないところで一人で弾いたら、方向が分からなくなったんです。あたしには地図が必要だった。ただし、オクレールさんの地図じゃなくて——」
彼女は、僕を見た。
「——キミが作った地図が必要だった」
かつてボストンで共鳴した僕たちが、何故これほどまでに歪な距離感を保たねばならないのか。論理を重ねるほど、その答えは遠くなっていく気がした。
だが、彼女はここにいる。
「——明日、マルレの練習に来い」
「行きます」
「スコアを渡す。ただし——今度は、お前も設計図を持ってこい。お前自身の」
メグが、初めて驚いた顔をした。それから、ゆっくりと笑った。
明日、僕はマルレの練習場で、彼らにこう告げるだろう。「昨日までの音楽を忘れろ。僕たちは今、この瞬間から、ただの『一音』として死ぬんだ」
メグ・ポッター。お前が、僕という「正解」を捨てたのなら。僕は、世界そのものを「不正解」に変えてみせる。
暗い冬の夜空に、見えないブルー・ノートが鳴り響いていた。それは、終焉の合図であり、同時に、誰も聴いたことのない新しいスウィングの、産声でもあった。




