一人が望んだ絶縁された世界
ロザンナの腕はもう、まともに動かせる状態ではなかった。鋭い牙に噛み裂かれ、血が絶え間なく滴り落ちる。それでも、彼女は倒れなかった。
「これでも……くらえ!!」
痛みなど構っていられない。傷ついた腕から血を撒き散らしながら、彼女は氷の魔法を解き放った。
枝分かれしながら広がっていく氷の呪縛はギートギルスに絡みついた瞬間、その身体を蹂躙するようにゆっくりと広がっていった。
「間に合って」
想像していたよりも、すべてが緩やかだった。けれど、その静かな時間こそが恐ろしい。 焦る心だけが先を急ぐ。ロザンナの指先が震え出す。
それとほぼ同時に、彼女は無数の敵意に囲まれた。身を隠し、至る所からロザンナを狙う、その敵意の正体は海の魔術師が大量に召喚していた魚たちだった。
「全ての魚たちよ、あの子を殺せ」
彼女の魚たちが尾ひれを鋭く尖らせ、牙を剥く。そして、獲物を追い詰める獣の群れさながら、峻烈な気配を纏いながらロザンナへと猛然と襲いかかる。
自分に脅威が降り掛かろうとも、ロザンナはギートギルスを凍らせる魔法を止めなかった。そして彼女は風に囁くようにそれを唱える。魔力不足により、たとえ自分の身体が朽ち果てようとも厭わない。この状況を打破するにはこの方法しかなかった。
「望縁魔法『氷雪相愛』」
轟音とともに白銀の奔流が大地を染め上げ、触れたものを次々と凍りつかせる。ロザンナを狙っていた魚たちは透明な氷塊の中で、その姿を永遠に留めた。アルシアを襲っていたギートギルスは氷の槍により、身体中を貫かれ、硝子細工が砕けるような澄んだ音を響かせながら砕け散った。
自分が助かったのだと理解した瞬間、緊張の糸が切れ、震える唇から安堵の吐息が溢れる。膝から下の感覚がすっと消え去り、彼女はその場に崩れ落ちた。
「アルシアさん!!」
考えるよりも早くアルシアのもとへ駆け寄った。冷たい雪を踏みしめ、彼女は一心不乱に駆ける。
雪に沈みゆくその身体を、ロザンナは強く抱き寄せた。冷え切った身体を包み込むように腕を回し、白い雪にらさらわれてしまわないよう、必死に抱きしめる。
「今、氷で止血して……」
ギートギルスの鋭利な牙に喰らいつかれたはずだった。それなのに、アルシアの身体には傷ひとつない。血の跡も、裂けた痕も、噛み付かれた名残さえもない。
アルシアの長いまつ毛に細かな雪がひとひら、ひとひらと降り積もっていく。彼女の肌はほのかな温かさを保ちながら少しずつ冷えていた。
「私は大丈夫です。ロザンナさん、ありがとうございます」
ロザンナはまるで答えを探すように、彼女の姿を見た。その瞳に小さな疑問を浮かべ、自分の傷とアルシアを見比べる。
「噛まれたのに、どこも怪我をしていない、これアルシアさんの魔法?」
アルシアはロザンナの身体をしっかりと支え、彼女の傷ついた腕を庇いながら、身を寄せ、二人はゆっくりと立ち上がる。
「私の魔法は、私が触れた物の時間を止めることができます。ですから、さっきギートギルスに触れられた瞬間に魔法を発動して、致命傷になる前に攻撃を止めていました」
ロザンナは理解するのに時間がかかった。理屈も常識もまるで無視したような魔法だった。時間そのものを操作する魔法なんて生まれて初めて聞いたし、学院でもそんな魔法習わなかった。
そんな高度な魔法かつ水面張力ギリギリのコップに溢れないように水わ注ぐような集中故、使用後に意識が薄れて倒れるのも無理はない。
感嘆としてるとき、アルシアの視線が、傷を負ったロザンナの腕へと向けられた。その瞬間、アルシアに強い罪悪感が込み上げてきた。
「ごめんなさい、私のせいでそんな傷を」
痛々しく滲む血を目にした瞬間、彼女の胸がきゅっと締めつけられた。思わず息を呑み、その傷から目を逸らすことができないほど。
ロザンナは静かに首を横に振った。アルシアが自分を責める必要ないと伝えるように、その瞳を真っ直ぐに見つめる。
「アルシアさんのせいなんかじゃないですよ。この怪我は自分で勝手に負ったようなもの、私の弱さが原因。だから、アルシアさんのせいなんかじゃないです。それに氷で止血すればもう大丈夫」
ロザンナはそう言ってギプスをつけるように、氷を自分の怪我をした腕に巻きつけた。
荒れ狂う吹雪の向こうに、何かの影が揺らめいた。白銀の幕に遮られ、はじめは輪郭すら定かではない。だが、風に舞う雪の隙間から、少しずつその姿が浮かび上がってくる。やがて露わになったその姿は海の魔術師だった。
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