全てはあなただけのために―11
僕は一人、真っ白な世界で狐の老紳士を待っていた。
詩由、望月、坂ノ下は先に現実世界へと帰ってもらった。「絶対に帰るから」と、渋る三人に言い聞かせ、僕は一人だけ夢の世界に残った。
現実世界に帰る――というより、夢から覚めると、僕はいつも夢で見聞きした出来事を忘れてしまう。おそらくそれはあの三人も同様なのだろう。
起きたらちゃんと謝りたい。覚えてるといいんだけど。
僕らに遅れて狐の老紳士が白い世界に現れた。獣じみた呼吸を荒げており、何かを威嚇しているように見えた。
「狐の老紳士。あんたのことを待ってたんだよ」
狐の老紳士に向かってそう言った。僕がこの世界に残ったのは彼に、――いや、彼女に言いたいことがあったから。
「んんっ! なんでしょうご主人様。てっきりもう目を覚まされたのかと思いましたが」
自身を取り繕い、居住まいを正す狐の老紳士はいつもの紳士的な話し方で僕に接してくる。
「ああ。流石に僕もいい加減目を覚まさないといけないな。あいつらには迷惑かけてるんだし、僕のことを待っていてくれてるんだろうからさ」
あの三人を想うと、早く現実に戻りたい気持ちが逸り出す。しかしどうしてもこの夢の世界で狐の老紳士に聞いておきたいことがあった。
「もしかして、なんだけど……間違ってたら恥ずかしいんだけど……」
僕は、一人の名前を言葉にする。
「もしかして、涼音さん?」
「……………………」
狐の老紳士は何も語らず、シルクハットのつばをグイっと下に押し下げた。
「明確な根拠は特にないよ。なんか子供っぽかったり、話してる時の雰囲気がどこか懐かしいって感じて、もしかしたら僕の知ってる人なのかって、そう思ったんだ」
なおも狐の老紳士は俯いている。シルクハットからはみ出していた狐特有の長い口がなくなっており、僕より頭一つ分高かった背丈は、僕より少し低いくらいにまで縮んでいた。
「後は……あいつら――詩由たちがあの狐の人形を見て涼音さんのことを思い出した時に、狐の老紳士の姿が頭の中をよぎったんだ。現実世界の僕は一体誰なのか全く想像もつかなかったけれど、夢の世界に来てみるとなんとなく合点がいくような気がした」
――ぐすっ。と、鼻を啜る音。紳士服を着た誰かの身体は震えていた。
「僕は……あなたが涼音さんだったら、とても安心できるんだけど」
「ご……ごめんなさい」
狐の老紳士から聞こえてきた声は、今までの重厚感のある渋いものではなく、幼い女の子のようなかわいらしい声になっていた。そのかわいらしい声も、自らの悪事を暴かれた子供のように、叱られた時のそれとよく似ていた。
目の前の誰かはシルクハットを取る。パーマのかかった長い髪がばさりとなだれ落ちた。
露わになる狐だったその顔は、涼音さん――僕の叔母の顔になっていた。
「ごめん……ごめんねぇ。弦二君……わたしっ、あなたを幸せにしてあげたくってぇ」
涼音さんの顔が現れて安心した僕は、しかし泣きじゃくる涼音さんにどう声をかけてあげればいいのか、すぐにはわからなかった。
「す、涼音さんっ。とりあえず落ち着いてよ。ね?」
「うん」
ズビーッと、鼻水が勢いよく啜られる音と共に、涼音さんは涙をゴシゴシと紳士服の袖口で拭いた。震えながら深呼吸をし、なんとか落ち着きを取り戻そうとしている。
「はぁ、ふぅうぅ。ごめんね。何とか大丈夫だよ」
「はは。涼音さんらしいよ」
涙や鼻水を強引に拭った涼音さんに、僕は笑いかけた。
「答え合わせというか、いろいろと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「ええ。ここまで知られちゃったんなら、弦二君に内緒にすることは何もないから」
とりあえず僕はどうして僕の夢の中に涼音さんがいるのかを聞いた。夢自体が非現実であるとはいえ、他人の夢へと干渉できる力が涼音さんにあるのかと、不思議に思った。
「弦二君も知っての通り、私は長い入院生活を続けていたの。高校ももろくに通えず途中で辞めちゃって、お天気のいい日中でも私はベッドに横たわる毎日だった。二十歳前になっても、私にできた友達はお人形さんだけだったなぁ」
「涼音さん、人形遊びとか絵本読むのが好きでしたもんね」
「そうなの。でもやっぱり飽きちゃうとすぐ眠たくなってきちゃって、一日一日の時間を私はほとんど睡眠に費やしてた。そして眠る度に夢を見ていたの。毎日見る夢の中で私はいつしか狐の姿になっていて、森や草原、はたまた街中を気持ちよく走り回ってた。そうしているとね、私は真っ白な世界――扉の世界に迷い込んでいたの」
涼音さんは白い世界を見上げ、また語り始める。
「この白い世界が誰かが見ている夢への入り口なんだって、気づくのに時間はかからなかった。現れた扉を開くと、私の知らない人が知らない記憶で作られた夢を見ていたから。この扉の世界はその人にとっての大事な記憶の集合体。それを見るのはさすがに気が引けて、私は扉の世界には行かなくなっちゃった」
なんとも不思議な力? 能力? だな。他人の夢に入れるなんて。
確かに、他人の夢に干渉できる力はすごいと思うけれど、夢は記憶の整理だともよく言われている通り、他人の記憶を覗いているようなものだ。知らない記憶を覗き見るなんて、心優しき涼音さんには苦しかっただろう。
でも――終わってみれば安心感しかないけれど――じゃあ、どうして僕の夢に?
「でも、扉の世界に行けるこの力を忘れてしまいそうになった頃、お兄ちゃん――君のお父さんでもある真治が死んじゃった」
「父さん……」
「理由は私も知ってるよ。お兄ちゃんは私の医療費を稼ぐためにいろんな仕事を掛け持ちして、夜遅くまで働いてたって。私が――止めて! そんなことされても嬉しくない、って泣き叫んでも、お兄ちゃんは全然やめてくれなくて、会いに来てくれる度にやつれていくお兄ちゃんをどうすることもできないまま、お兄ちゃんは死んじゃった。私はお兄ちゃんの稼いでくれたお金で手術をしてこうして元気になれたのに、もうお礼を言える相手がこの世にいないのは、本当に悲しかった」
心優しき涼音さん――そんな彼女が兄の死に心を痛めなかった筈がないのだ。それこそ涼音さんは父さんに命を貰ったとすら考えているのかもしれない。しかし、もう父さんはこの世におらず、涼音さんの悲しみを受け止めてくれる者は誰一人としていなかった。
「でも、時間が経って私は、お兄ちゃんが死んで深い悲しみに捕らわれている人は私だけじゃないんだって、ようやくそう思えるようになってきたの。私なんかとは比べられないほど、失くしたものの大きさに胸を締めつけられている人……」
それは……。
「お兄ちゃんが離婚したのは知ってたから、お父さんがいなくなって一人になってしまった弦二君を助けてあげたい……私はそう考えた」
「それで、僕の夢の中に現れてくれたんだ」
「弦二君の記憶を覗くのはちょっぴり気が引けたよ――けれど、それ以上の幸せをあなたにあげたかった。この、夢に干渉する力を使って」
涼音さんは胸に手を当て目を閉じた。その姿を見た僕は、その小さな胸の中にどれだけの想いが巡り巡ってきたのだろうかと、涼音さんの人生を想像した。
真っ白のベッド、真っ白のカーテン、真っ白の床、真っ白のありとあらゆる物――。
そして、真っ白な人生。
この世界は夢への入り口だと言っていたけれど、僕には涼音さんの人生を、涼音さんの瞳に残る光景を、誰かの夢に投影したものが夢として現れたのではないかと、そんな想像を膨らませた。
「でも、ごめんなさい……私はこの夢についての性質をこれっぽっちも理解できていなかった。私はあの三人の女の子たちを知っていたから、弦二君とあの子たちとの関係がより深まればいい、もしくは何かのきっかけになってくれればいい――そんな安易な考えで、私は君に夢を案内し続けてきた。けれど……」
もう何度目かもわからない謝罪をまた、涼音さんから受ける。
「ごめんなさい。弦二君が夢の中の私を意識したことによって、弦二君の人生に影響を与えていた夢が整合性をとろうと君を夢の中へ引き摺り込んでしまったの。だから弦二君は目が覚めなくなって……、夢の扉を開けない私は……、けっきょく、あのさんにんにぃ……たよるしかなくってぇ」
「うっ、うっ」と、また泣き出してしまった涼音さんは、白い地面に座り込んでしまった。
全くもう、この人は……僕は涼音さんに感謝しかないのに。
僕は涼音さんの顔が見えるように膝をつき、小さな肩に手を置いた。紳士服を着た涼音さんはとても小さく、でも、確かにその身に宿る熱量を感じた。
「ありがとう。涼音さん」
「え? …………」
「涼音さんが僕に幸せをくれたんだ。地味で、平凡な僕は、毎日ちまちまと布に針を通すぐらいのことしかしてこなかった。でも涼音さんが僕とあの三人を繋いでくれて、僕は楽しかったし、幸せを感じられたよ」
――だから、
「だから今度は、涼音さんが自分の幸せを探す番なんじゃないかな?」
「わたし……の?」
「そうさ。せっかく元気になれたんだ。これまで涼音さんが見られなかった世界を一緒に見に行こう。何ができるかわからないけれど、僕も協力する」
こんなに小さな体で僕を導いてくれたんだ。今度は僕が、涼音さんに付き添ってあげたい。
「ありがとう……ほんとうにっ、ありがとぉっ」
「へへっ」
この真っ白な夢は、現実の世界がいろんな色でできているとそう教えてくれた。
例えば景色であったり、物であったり、人であったり、動物であったり、その場所その時々で色を変え、そのもののもつ鮮やかさに目を奪われる。
南雲詩由、望月玲、坂ノ下夏――。
三人の少女と触れ合う中で、それぞれの持つ色は、例えようのない煌めきに満ちていた。
果たして僕は、少女たちからどんな色で見えているのだろう?
「コントラスト――」
「え?」
僕の心中を見透かしていたかのように、涼音さんはそう言った。
「そう……まるで弦二君はコントラストの境界――鮮やかな自分色で輝く少女たちの境界線に立ち、その色を際立たせる人……君の記憶を見ていて、私はそう感じたなぁ」
色と色の間にある境界。それは確実に存在するが、誰しもにとってもそれは当たり前で、美しい色彩にその目は向けられはしても、境界線があることなど意には介さない。
消滅にも劣らない霞のような存在。でもその場所にも色はある。
なんとも僕らしい例えを言ってくれるなぁ。
でも……ありがとう。
心の中で涼音さんに小さくお礼を言った。




