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全てはあなただけのために―10

≪狐の老紳士≫


 少女たちの向かった扉の先、狭い玄関のくつ脱ぎの前に、私たちは立っていた。


「ここって、上乃君の家?」


 扉の先にて第一声を発した望月玲は、玄関近くにあるトイレと洗面所、その奥に見える居間への入り口。その光景を見覚えのあるような表情でじっくりと見回している。


「そうみたいですね。眠る直前に見ているので間違えようがないかとは思いますが」

「うん。あたしも上乃ん家に見える」


 南雲詩由と坂ノ下夏も、父親の写真が飾ってある玄関と、そこから続く通路の奥を見ていた。


「――ははは! そう――じゃんかよー」


 奥で誰かの話し声が聞こえてくる。上乃弦二の声。上乃弦二はもう一人の誰かと話しているような、どこかあどけなさのある口調をしていた。


「行ってみましょう」


 声は奥にある居間の方から聞こえてきた。三人の少女は歩みを忍ばせながらゆっくり奥へと進んでいく。私もその後に続き、足音を殺すことを意識した。次第に大きくなっていく話し声は、とても楽しそうなもので、上乃弦二が夢の中に捕らわれていることなど微塵も感じさせなかった。

 三人同時に、会話の弾んでいる居間の方へと顔を出した。


「兄さん! と、――え?」

「詩由? それに……望月と坂ノ下」


 上乃弦二は部屋の中心にあるちゃぶ台を前にして胡坐をかいていた。そしてその対面には、


「――」


 黒い、人型をした影が座っていた。

「ひっ」と声を上げたのは坂ノ下夏。はっきりしない輪郭と深淵のような暗闇は少女たちを怯えさせるのに十分だった。これまで夢をいくつも渡り歩いてきた、夢の案内人である私にもそれが一体何なのか判断がつかなかった。

 居間にあるカーテンなどは閉め切られており、昼夜の判断はつきづらい。単に夜だからなのか、それとも影が日光を嫌うからかはわからない。この部屋はなんとも奇妙な部屋であった。

「ゴクリ」唾を飲み下す音が聞こえた。目の前にいる影の存在を恐れているのか、震える身体を抑えながら南雲詩由は上乃弦二へと言った。


「兄さん。私たちは兄さんを迎えに来たの。早く帰ろう?」

「……ああ。そうだな。いやな、僕もすぐに帰るつもりだったんだよ。現実での僕が眠っているってのはわかってたからさ」

「じゃあどうしてっ? 私たちが一体どれだけ心配したと思ってるの?」

「うぅっ! す、すまん。望月も、坂ノ下も、どうやってきたのかはわかんないけど、ここまで来てくれて本当にありがとう」


 立ち上がった上乃弦二は三人の少女に向かって頭を下げる。その姿を見た少女たちは失くしたものを見つけた時の、安堵の表情に満ちていた。


「大変だったんだから。私、振られたのなんて初めてよ?」

「え? だ、誰に?」

「あたしもー。どんな関係でも、これから一生仲良くしてくれるんだよね?」

「い、一生? そんなに……」

「ふふふっ、ここに辿り着くまでに、私たちは兄さんのことを随分と理解できたような気がする。平凡で地味な兄さんのことを、ね?」


 三人の少女の笑い声と、一人の少年の慌てように、私も釣られて笑ってしまった。


「うん。……それじゃ帰るよ。現実の、僕のいるべき場所に」


 上乃弦二はちゃぶ台の前に座っている影の方を向いて微笑んだ。影の顔が少しだけ揺らめいた気がした。


「兄さん……この方? は――」

「なんでもないよ。これは僕の記憶から作り上げられた夢の住人さ。そうなんだろ? 狐の老紳士?」

「は、はい。おそらく……」


 急に話を振られどう答えるべきかに迷い、私は曖昧な答えしか出せなかった。人型の影が現れるなど未確認の現象であり、私にもその正体がわからなかったのだ。


「そんじゃ――いや、そうだな……」


 揺らめく影に向かって上乃弦二は別れを告げようとした。しかし、途中で記憶を手繰り寄せるような思案顔になる。

 そしておもむろに右手を上げると、


「俺たちに別れはいらない! そうだろ?」


 影に向かってサムズアップした。すると影も腕を浮かせ、影の先端から一本の細長い指のようなものを生やした。

 その姿から懐かしい気配がした。


「よし! それじゃあ帰るぞー。早く起きないと腹減ってるかもしれないからな!」

「全く、兄さんは呑気なんだから」

「でもこういう呑気なところが上乃でもあるよねー」

「へぇ。上乃君ってそういうところあるんだー」


 少年少女たちは、ここが夢で、限りなく非現実的な現象の中にいるのだということを忘れてしまったかのように、明るい雰囲気でアパートの玄関から外へと出て行ってしまった。


「よかった……彼女たちが強くて、弦二君が適応力のある人で」


 現実へと帰っていった少年少女たち。上乃弦二がこの夢から出たことによって夢の世界が崩壊していく。徐々に私も開いた扉の方へと吸い込まれそうになっていた。

 ――ポン。

 そう音がしたように思え、何かが置かれた肩の方へ眼を向けると、そこには私の背丈ほど高くもある影が揺らめいていた。

 吸い込まれゆく私の、シルクハットに隠れた耳にはこう聞こえた。


『俺がいない分、弦二を頼むな?』


「――っ! おっ――」


 その言葉に私は一瞬で感づいた。しかし、急激に勢いを増した引力に、扉へと吸い寄せられていく。

 最後に、何かを残そうとして私は叫んだ。


「おにぃちゃぁんっ!」


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