全てはあなただけのために―8
扉を開くと、そこは私の部屋だった。
部屋の角には水色のベッド。ベランダへ出られる窓を挟み、ベッドの反対側の角には勉強机がある。その隣には化粧棚。手前側には木製のクローゼット。部屋の中心には簡易式の小さなテーブル――どこか違和感が潜んでいるような私の部屋。
――中学三年生である、私の部屋だ。
「あぁ。そっか。生徒会の仕事も片付いて、少し帰るの遅れちゃったんだっけ?」
私は学校で生徒会長を務めている。成績が上位というだけで皆から推薦を受けるのだから困ったものだ。誰も私の成績なんて興味ない。発表された順位と点数、その数字だけを見て「こいつが生徒会長だ!」と、仕事を押し付けているに過ぎない。
そんな生徒会長の役割を果たしているせいで、我が家へと帰る時間が遅くなってしまう。今日なんて、そろそろ仕事に出ているお母さんが帰ってきそうな時間帯だった。
「お母さん帰ってくるまでに、料理の支度、やっておかないと」
夏の暑さで滴る汗をタオルで拭いながら、鞄を机の上に置いた。机の正面の壁に掛けてある、横に長い長方形のコルクボードを見る。そこには一つの家族が写っていた。
ヘラっと笑うお父さん、凛と澄ましたお母さん、そしてブカブカの制服を着ている兄さんと、兄さんから顔を背けている私。
入学式に撮った写真。けれど、この形は既に崩れてしまっている。
今はお母さんと二人暮らし。崩れた二人だけの家庭に、私はなんの不満もなかった。
浮気してお母さんを悲しませた父、金魚の糞のごとく父についていった兄――お母さんは何やら心配している様子だけれど、私はもうあの二人なんてどうでもよく思っている。
特に兄さんの節穴な目には何が映っているのかわからない。せっかくお母さんが一緒に暮らそうと誘ってくれたのに、それを拒否してお父さんについていくなんて。
「…………あっ、感傷に浸ってる場合じゃないよね。早く支度しないと」
部屋の扉に手がかかる寸前、鞄の中に入れていたスマホが通知の音を鳴らした。
「兄さん? 一体何の用?」
それは滅多にかかってこない番号の一つ、兄さんからだった。私は訝しみながら、スマホを耳に当てる。
「もしもし、兄さん?」
『あー。出た出たぁ。愛しの妹ちゃんですかー?』
下卑た女の声。兄さんじゃない。
『いま―君の兄ちゃんふん縛ってるところなんだけどー。こいつ全然ダチいなくってさぉ。しゃーないから妹ちゃんにかけるしかなかったんだよねー』
「誰ですか、あなたは」
『君の兄ちゃんに絡まれたかわいそーな善良市民ですよー。ヤニ吸ってたらメンチ切ってきやがったからさぁ、善良市民のあーしらが懲らしめてやったってわけ。ついでに絞れるだけ搾り取ってやってんのよ』
あーしら――敵は複数人いるか。……とはいえ、女相手に捕まるなんて、兄さんはか弱いヒロインでも気取ってるんじゃないでしょうね。
『くるなっ! しゆっ、来るんじゃないぞ!』
兄さんの声。切羽詰まったそれは私を拒んでいる。
『ぎゃあぎゃあうっさいね……そんじゃあ、とりま五十万でいっかー。それと兄さんを引き換えだかんね。早く来ないとあんたのお兄ちゃん痛めつけちゃうからさー』
ブツッ――電話が切れた。その直後に場所を示されたメールが送られてくる。
五十万の大金、今すぐになんて用意できない。最も、持っていくつもりなんて更々ないけど。
私は指定された場所に向かうことを決める。助っ人として同じ生徒会に所属している友人に連絡を入れたが、出てくれなかった。
「仕方ありません。何か武器でも持って一人で向かうとしましょう」
鈍くさい兄を助けることに多少めんどくささはあったが、それでも血の繋がった家族なのだから。多少の危険はあれども、助けに行かなければならない。
右手にぶら下げていたスマホが再び鳴った。今度は誰が何の用なのだと、イラつきを抑えられないままにスマホを耳に当てた。
「何でしょうか? 少し用事がありますので――」
「こちらは鵜久森総合病院です。南雲詩由さんで間違いありませんか?」
鵜久森総合病院? 確か同じ地区にある大きな病院だ……。
『あなたのお母さま――南雲詩織様が交通事故に遭われ、救急搬送されました。瀕死状態にあります。今すぐ病院に来てください』
……………………は?
「いま……なんと?」
「あなたのお母さまが交通事故に遭われました。今すぐ病院に来てください」
私の行動を指示する女性の声は冷静で、しかし早口で聞き取りづらい。
私は何度も相手方の女性に確認を取った。人違いではないか? 事故に遭ったのは本当に南雲詩織なのか? 赤の他人ではないのか? 本当に、本当に……。
「急いで来てくださいっ! お母さまはあなたの名前を呼んでいます!」
「――っ!」
堰を切らせた叫び声が、耳の奥をつんざいた。向こう側にいる女性が正真正銘、嘘偽りのない本当のことを言っているのだと、やっと頭が理解した。それと同時に怖気と焦燥感が同時に私を襲った。
お、お母さんが事故って……そんな。は、早く行かないとっ。
扉を開けようとして手を止めてしまう。兄が窮地に陥っている状況を思い出した。
お母さんの元へ駆けつける? それとも、兄さんを助け出してからお母さんの元へ? 緊急を要するのは間違いなくお母さんの方だ。兄さんは……命に関わることは恐らくないだろう。
考えてる時間が惜しい……。私は母の元へ駆けつけることを選んだ。
待ってて! お母さん!
私は部屋の扉を開いた。
その先には白い世界が待ち受けていた。
記憶の奔流が私の頭を駆け巡る。
「あっ、……ああっ……、あああああああぁっ!」
目の前に白が飛び込んできた瞬間、私は自責と後悔の念に襲われた。これは夢なのだとわかっているのに、頭を抱えてあるのかどうかもわからない地面に膝をつく。
「私は……兄さんを見捨てた……」
顔を両手で覆い隠す。指と指の隙間から、目から溢れる涙が零れ落ちた。
ここは兄さんの記憶によって創造された夢の世界。私が見ていた光景は兄さんが実際に体験した記憶なのだろう。兄さんの記憶を私が追体験したと考えられる。
私は兄さんを選ばなかった。同じ状況に兄さんは立たされたのに、私は捕らえられた兄さんを後回しにしようと考えてしまった。
瀕死である母と、捕らえられた兄――その状況で、私は母を選んだのだ。
私が世俗に塗れる普通の人間であったならば、正解であったと素直に喜べたのかもしれない。でも、私は兄さんだけを一生選び続けると心に誓ったんだ。例えどんな状況下に置かれたとしても兄さんに添い遂げると、誓った筈なのに……。
「こんなにも、私は脆くて……弱い」
結局私は、家族という境界を超えることはできないのだ。




