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全てはあなただけのために―5

≪坂ノ下夏≫


 あたしは夢を見ていた。

 そこは真っ白な世界だった。頭の上も履いているローファーの下も、見回す限りを深く、濃く、純粋な白が覆いつくしていた。しかし靴の裏には地面のような硬い感触があって、自分が宙に浮いているわけではないのだとちょっとだけほっとした。


「夢を見てるってことは、あたし寝ちゃったんだっけ?」


 独り言を呟いてみても言葉は何にも届かない。視界が白く覆われているせいか平衡感覚がおかしくなりそうだった。

 白い世界の中で、他の色に気が付いた。それは私の足元にあった。

 横たわる南雲と望月。私はしゃがんで二人を起こそうとした。


「南雲! 望月! 二人とも起きてよ!」

「ん……」


 目を覚まさない上乃を見ていたからか、目を閉じて横たわっている人間の意識は永久に覚めないのではないかと不安になっていたが、南雲と望月の目はゆっくりと開いた。

 よかった。二人とも上乃みたいになってなくて。夢の中って言っても、こんな得体の知れない世界に一人でいるなんて心細すぎるよ。


「あれ……? ここ、どこ?」

「私たちは、眠ってしまったのではなかったでしょうか?」


 目覚めた二人もこの白しかない世界に圧倒されていた。

 私たちは三人であちこちを見回してみたけれど、何も見当たらない。あるのかないのかわからない地面を思いっきり踏み鳴らそうとしてみても、物音ひとつしない。

 いやに現実感のある夢に、私たちはどうすることもできないでいた。


「ようこそ。お嬢様方」


 重みのある渋い声が聞こえてきた。それと同時にいなかったはずの誰かが私たちの目の前に現れた。

 グレーの紳士服。白い手袋にはステッキ。頭の上にはシルクハット。細身で背の高いその誰かは、風貌からして初老の男性かとも思った。

 しかし、ハットの下から現れたのは、黄金の毛並みだった。


「き、キツネっ? ――でっ、でも人間の身体してるのに……」

「驚かせてしまい申し訳ございません。私はこの夢――『扉の世界』の案内人をしております」

「『扉の世界』?」


 現実離れしたワードに、南雲と望月は顔をしかめた。私は未だ、大きな口を動かしながら人間の言葉を放つ狐の顔に唖然としていた。


「ご主人様はこの世界をそう呼ばれております。そして私のことは『狐の老紳士』と、仰っておりました」

「ご主人様……とは、もしかして兄さん――上乃弦二のことですか?」

「左様でございます。ご主人様はこの夢の主でございますので」

「ここは夢なの? 『扉の世界』って言ってたけれど、上乃君が見てる夢?」

「左様にございます。ここはご主人様の記憶から創造された夢の世界。この空間からは扉を通じてご主人様の人生を垣間見ることができるのです」


 狐の老紳士の渋い声と、南雲、望月の落ち着いた声が交錯している。


「兄さんの人生……兄さんの記憶から創造されたとするならば、さすがに未来の人生は見れないのですよね?」


 南雲はおそるおそる、狐の老紳士へと訊ねた。


「完全なる未来予知――それはできません。……が、ご主人様とご主人様に何らかの関わりのある人物。双方に関連した未来の風景を夢の中では見ることができるのです。現実の世界には『予知夢』と呼ばれる夢があるようですが、それと同じ括りに属すると考えてよろしいでしょう」

「予知夢なんて見たことがないけれど、未来の片鱗が見れるなんて、ひょっとして上乃君はすごい夢を見ていたのかもしれないわ」


 南雲と望月は狐の老紳士の言葉を聞きながら、上乃の見ている夢に次第に理解を深めていく。あたしには三人の話についていくのが精一杯で、何がわからないのかパッとは思いつかない。


「しかし、ご主人様の夢は未来を知ることが本来の目的ではありません」

「それってどういう……?」


 狐の老紳士は白い手袋に包まれた掌をあたしたち三人へと向けた。


「南雲詩由、望月玲、坂ノ下夏――お三方の、心の扉を開くためにございます」

「心の、扉?」

「お嬢様方の心の扉は既に開かれております。どういうことか、お分かりになりますでしょうか?」

「それってつまり……あたしたちが上乃を好きになるってこと?」


 心がざわついた。この疑問を解消せずにはいられなかった。


「左様でございます」

「もしかして……あたしたちが上乃を好きになったのは……上乃に未来を操作されたから?」

「ご自分の気持ちを疑ってはなりません。これはご主人様とお嬢様方の人生なのです。心の中に生まれた恋という名の気持ちに嘘偽りはありませんよ。あなた方はご主人様のどのようなところに魅かれたのでしょうか?」


 言われてあたしの、あたしだけの記憶を思い出す。

 あたしは人見知りで、周りからはクールなんて呼ばれて他人とあまり関わらないようにしていた。そんな私にしつこく声をかけてきた上乃。あたしの灰色だった学校生活を明るい景色にしてくれたのは、紛れもなくあいつだった。

 そもそも、私はあいつに出会った時からずっと……。


「あたしは上乃の、上乃らしいところを好きになったんだ」

「私もです。私も……兄さんを選び続けると、あの時から誓ったんです」

「好きなものに理由なんていらない。それを、紛れもない上乃君が私に教えてくれた」


 南雲、望月と顔を見合わせ自分の想いを確かめる。そして、この不可思議な白い世界にいる現状が上乃に恋しているという証左になると、そう感じた。


「ご主人様……あなたは既にこれほどまでの幸せを手に入れているのですね」


 狐の老紳士がシルクハットのつばをつまみながらそう呟いた。心なしかその渋い声に喜びの色を感じ取れた。

 南雲や望月ほど頭のつくりがよくないあたしが、この『扉の世界』とやらについて考えたってそれこそ不毛だ。あたしたちが今、直視しなければいけない問題は?


「ねえ。狐の老紳士。上乃が起きない理由はこの夢と関係あるんじゃないの?」

「……はい。ご主人様は扉の世界に閉ざされてしまいました」


 核心を突かれ、うろたえたように見えた。

 狐の老紳士は手に持っていたステッキをクルリと一回転させ、あるのかどうかもわからない地面を先端で突いた。

 白い世界にうっすらと、いくつもの影のような何かが現れたかと思うと、それは次第に木製の扉へと形を変えた。上にも下にもそれらはあり、近い場所にある扉はリアリティを感じさせ、遠い場所にある扉は幻であるように見えた。

 真っ白だった世界は扉の世界へと変化した。


「うぅわっ……すご……」

「『扉の世界』……そう呼びたくなるのも納得ですね」

「こ、こんなに数ある扉の中に、上乃君は迷い込んでるっていうの?」


 見たこともない……というか現実にはあり得ない光景に私は息を呑んだ。現実世界でいつも何気なく開いているはずの扉が、こんなにも視界の中に入り込んでくると、虫や鳥などの大群が群集を成してこの真っ白な世界を侵略しに来たのではないかと、私はそんな想像をした。


「私はこの扉の世界の案内人を務めております……が、ご主人様が今どの扉の先におられるのか、私にもわかりません。お嬢様方にお願いしたいことはたった一つ――どうか、ご主人様をこの扉の世界から見つけ出してはくれないでしょうか?」


 狐の老紳士はシルクハットを掴み自分の胸へと持ってくる。頭の上からピョコンと小さな耳が現れたと思うと、深々と、恭しく頭を下げた。


「兄さんを見つければ現実世界での兄さんも目を覚ますのですね」

「左様でございます。私はあくまで案内人でありますゆえ、扉を開くことが叶いません。ですので、ご主人様に関係の深いお嬢様方に私は助けを求めました。私の勝手な振る舞いを、どうかお許しください」


 頭を下げながら申し訳なさそうに言う狐の老紳士に、私は言ってやった。


「どうせならもっと早く呼んでほしかったんだけどね。上乃がピンチだってんなら、あたしはどこへでも駆けつけてやりたいよ」


 夢だからだろうか? 上乃のためならこの世界で一生走り回っていられる――もうなんだってできそうな気がしてきた。


「私もよ。……でもこの場合、三人で闇雲に扉を開いて行ってもそれだけ時間がかかりそう……。この世界に時間の概念はあるのかしら?」

「ございます。ご主人様とお嬢様方は現在眠っている状態にありますので、この世界での時間経過は現実世界でのそれと同等。今も時は流れ続けています」

「ということは、兄さんを見つけなければ私たちもそれだけ寝ている状態が続くということですね……フフッ。起きたらゲッソリしていなければいいですけれど」

「うわー。そういえばあたし、トイレ前に行ったのいつだったっけ……起きたら上乃の部屋に……」

「だ、大丈夫よ。多分……その時はみんな一緒だから!」


 あたしたち三人は顔を見合わせて笑いあった。問題は何も解決なんてしておらず、得体の知れない世界に放り込まれて途方もない状況にあるけれど、こうして南雲と望月と、笑いあえている時間がなんだか可笑しかった。


「兄さんを見つけましょう。そして……みんなでまた兄さんの部屋で」

「うん。早く上乃を叩き起こして、言いたいこととか聞きたいことがいっぱいあるんだ!」

「私たちは一人じゃない。例えどんなことが待ち受けていようと、それだけは忘れない」


 三人で向かい合い、腕を伸ばして拳を突き合わせた。

 南雲と望月は私を含めた向かい合う二人に頼もしい笑顔を向けている。あたしも二人に負けないように、精一杯の笑顔を投げつけた。


「ご主人様をよろしくお願いします」


 お互いに頷きあい、あたしたちは背を向けて走った。はたして扉の先がどこへ向かうのかもわからない。何が起こるのかもわからない。その先に上乃がいるのかどうかもわからない。

 それでもあたしは、上乃がいることを信じて扉を開き続けよう。目が覚めればきっと、あたしたち四人が、笑いあえることを信じて。


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