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全てはあなただけのために―4

≪南雲詩由≫


 事態は思っていた以上に深刻であった。兄さんが目を覚まさないのである。

どれだけ大きな声で叫んでみても、身体を左右に揺らしてみても兄さんの呼吸は一定を保ったまま安らかな寝息を立て続けている。


「おかしい……どころじゃないですね。明らかに異常です」

「そうね。これだけ起こそうとしても寝息の一つ変わらないなんて」


 兄さんの部屋のベッドの横で私たち三人はそれぞれ唸っていた。眠ったまま目を覚まさない病気なんて聞いたこともない。何か得体のしれないものが兄さんに憑りついているのではないのかと、そんな不安が押し寄せる。

 ――ピンポーン。

 不意になったインターホンに、身体がビクリと飛び跳ねた。


「え? 誰か来たの? 上乃寝てるんだけど」

「私が出ましょう。これでも家族ですので」


 家族の家の、最近歩きなれてきた床を踏みながら私は玄関へと向かった。兄さんの家に用のある者など、どうせセールスの類だろう。

 はたして、開いた扉の向こう側に現れたのは私の知る顔だった。


「あら? もしかして詩由ちゃん?」

「す、涼音さん、ですか?」


 にこやかに優しい笑みを向けてくる涼音叔母さん。父さんが死んでからというもの、会う機会はめっきりと減ってしまい、こうして顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。

 それにしても美しい人だった。緩くパーマのかけられた長い髪。ふわりとした白いカットソーにベージュのロングスカート。片手にシンプルなデザインのトートバッグを提げており『優しいお姉さん』という人物像を体現しているかのような人だった。

 いい匂いがする……香水でもつけてるのかな? 相変わらず綺麗な人。でも、なんで兄さんの家に?


「元気にしてた? ホントにかわいくなっちゃって」

「お久しぶりです。私の方はあまり変わりありませんよ。涼音さんの方はお体の具合はいかがですか?」


 父さんが忙殺されてでも助けたかったその人は、今でも快活で明るい性格をしている。元気そうでなによりだ。


「私はこのとーり! 元気にしてるよー」


 そう言って華奢な腕を鞄ごと持ち上げてみては、両腕のこぶしを顔の両側へと持ってきた。


「それはなによりです。それでですね……兄さんは今ちょっと」


 なんとなく言いづらかったけれど、兄さんが寝ている旨を涼音さんに伝えた。涼音さんは目をパチクリと瞬かせキョトンとする。


「寝てる……? 起きないの?」

「ええ。もう何度も起こそうとはしてるんですけど、どうにも起きてくれなくて」


 私が申し訳なく思っていると、涼音さんは幼い子を見るように優しく笑った。


「私が様子を見てみてもいいかな? 多分何も役に立てないと思うんだけど」

「いえっ、私たちもどうすればいいかわからないので……家主ではないですが上がってください。あっ。あとそれと知り合いが二人ほどいるのでご迷惑でなければ……」

「ありがとう。私は全然平気だよ。それじゃお邪魔しまーす」


 涼音さんを部屋に招き入れる。二人分の足音を踏み鳴らしながら、私は望月さんと坂ノ下さんの待っている兄さんの部屋へと戻った。


「えっ? もしかして涼音さんですか?」


 兄さんの部屋に入った涼音さんに真っ先に反応したのは望月さんだった。


「アキラちゃん? 弦二君のお友達だったんだねっ」


 私の後ろから部屋へと入った涼音さんは引き戸を閉め、付近の壁にバッグを置いた。そして望月さんと坂ノ下さんに目線を合わせるように床に座った。


「あ、はい。まさかこんなところでお会いするなんて……」

「偶然ってすごいわね~。そちらの方は……もしかしてなっちゃん?」


 涼音さんは驚いた顔で坂ノ下さんを見る。


「お、憶えててくれて光栄ですっ! 涼音お姉さん!」

「当り前じゃないの~。あんなに私と仲良くしてくれたんだから」


 まるで子供っぽく喜ぶ涼音さんはその美貌も相まってとてもかわいらしい。涼音さんの持つ無邪気な煌きに、私たち三人は魅せられていた。


「それで? こんなかわいい子たちがわざわざ家まで来てくれているのに、ぐーすか寝ているお寝坊さんは?」


 制服姿のままベッドに仰向けで寝ている兄さんの顔を涼音さんは覗き込んだ。「ほーほー」と何故か頷きながら兄さんの顔を嘗め回すように見ていた。


「……えいっ!」


 ブスリ――兄さんの鼻の穴に涼音さんの二本の指が突っ込まれた。


「す、涼音さんっ?」

「いやー全然起きないわねー。こうなったら落書きでもしちゃいましょうか」


 兄さんが起きないこの状況を涼音さんは楽しんでいるようにしか見えず、私は呆気にとられてしまう。とても二十六歳の言動には思えない……。


「ぶふっ! あははははっ! す、涼音さん面白いーっ!」


 突然噴き出したの坂ノ下さんだった。どうやら涼音さんの感性と似ているようだ。


「あははははは…………はは……、あ、あれ?」

「坂ノ下さん? う……」


 坂ノ下さんの笑い声が徐々に勢いをなくしていき、不自然に思えて近寄ろうとした私に突如訪れた倦怠感。頭がクラクラするようで、視界が狭まっていくようで、意識が薄くなっていくような感覚。これは……眠気?


「なに……これ? こんな、急に……眠くなってくる……なんて」


 頭を抱えて舟を漕ぎ始めていた望月さんは、ついに床へと崩れ落ちた。続いて隣に座っていた坂ノ下さんも彼女の上に重なるように寝転んだ。


「二人とも……、す、涼音さんはだいじょう――」


 涼音さんは私たち三人を見て、悲しそうな表情をしていた。

 涼音さんには私たちのように眠気は襲ってきてはいないようで、立ったまま倒れそうになる私を抱きかかえた。薄れゆく視界の端がバッグを捉え、その中から極わずかに不思議な香りが漂っていることに、私はやっと気が付いた。

 あぁ……涼音さんの匂い……消えてる。

 眠りの中に引き摺り込まれる。抗う気力はもう生まれてこなかった。


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