せめぎ合う恋心―6
≪南雲詩由≫
自宅での夕食は私にとって家族二人だけの優雅なひと時であった。
「今日もおいしそうだね。やっぱりお母さんはなんでもできちゃうんだなぁ」
「ふふん。詩由も私の子なんだから練習すればできるわよ。それじゃ食べよっか」
私はお母さんと二人で比較的小さめのマンションに住んでいる。お母さんがお父さんと離婚してからの移住先で、駅やバス停などの交通の便がよく住みやすい場所だ。部屋はお母さんと週末に掃除しているため綺麗に保たれており、私たち二人の几帳面な性格が表れている。
丁寧な所作で食事をするお母さんはみそ汁に口をつけ、一つ息を吐いた。
「ごめんね。いつも遅い時間になっちゃって。でも詩由と一緒に食事が取れて嬉しいわ」
「いいんだよお母さん。私もお母さんといつも一緒に食事ができて嬉しいけど、無理して身体壊されても困るよ。少し遅くなっても待ってるから、ゆっくり帰ってきてね」
女手一つで私たちの生活を支えてくれているお母さんにはいつも感謝している。けれど、なによりも私はお母さんに無理をしてほしくなかった。
私たちは仕事に命を奪われた人を見ているから。
「うん。ありがと詩由。大丈夫よ。そんなに無理してるわけでもないからさ」
お母さんと私は同じ気持ちを共有している。私にとっては父でありお母さんにとって夫であったその人は、多忙に明け暮れて命を落とした。あんなにも常に笑顔をつくりつづけ、私たちに生きる楽しさを教えてくれた人がそんなことになって、私は日常に潜む危険を常に探してしまうようになった。
あれから私たちは『仕事』に費やす自分たちの時間に敏感になっていた。けれど、お母さんにはやつれた様子も疲れた様子も全く見られない。心労が祟っているようでもなく円満な生活を送れている。やはりお母さんはハイスペックな人間性能の持ち主で、仕事を上手く切り抜けられる方法も熟知しているのだろう。
「詩由を心配させるようなことは絶対にしない。だから安心してあなたは学校に通ってちょうだいね?」
「ありがとう。お母さん」
母と二人きりの食事は安心の満ち足りたものだった。そんな夕食はおいしくて、ついついこんがりとしたから揚げや、味の染み渡った煮つけに箸を伸ばしてしまう。今日もお腹いっぱいご飯が食べられそうだ。
「ところで、詩由には好きな人とかいないの?」
「ぶぅっーっ!」
「うわわっ! 詩由! 急にそんな米粒飛ばさないでくれる? 食事中にご飯を吐き出すような育て方をした覚えは私にはないからね?」
「お母さんが変なこと聞いてくるからでしょっ? もう……ティッシュティッシュ」
なんとか落ち着きを取り戻し、自分の吐き出した米粒を捕まえていく。私の飛ばした米粒がお母さんのほっぺについており、それを取って口に入れたお母さんは再び私に聞いてくる。
「詩由も年頃の女の子なんだからそういう人がいたっておかしくないでしょ? 私もあの人とは高校の頃からの付き合いだったからさ、ふと気になっちゃって」
「いないよ。告白されたことなら何度かあるんだけど」
「ほー。さすがは私の娘ね。でも彼氏できたらちゃんと紹介してね。私が詩由の選んだ男をしっかりと見極めてあげるから!」
「しない! お母さんって男を見る目も厳しそうだもん」
「そんなことないわよー。じゃなかったらあんなお父さんと付き合ってないわ」
箸を一旦置き、お母さんは楽しそうにお父さんのことを話し始める。
「詩由も知ってるとは思うけどね、お父さん顔もそんなにかっこよくなかったし、いろんな物事も上手くやりこなせなくて不器用な人間だったの。弦二はお父さんのそんなところばっかり似ちゃったわね」
「そうかも。そして私はお母さんに似てるよね」
「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。……でもお父さん、弦二にもたまに感じていたんだけど私たちには見えない何かが、あの二人にはきっと見えているのね」
「私たちには見えない?」
「友達やクラスメイト、家族だってそう。自分を取り巻く人との付き合いが深くなるにつれて、物事を大局的に見る力が失われていくの。それは決して悪いことじゃない。自分を大切にしてくれる人に良く目を向けてしまいがちなのは至って当たり前の心理よね?」
「うん。私も……」
お父さんが死んでしまってから私も兄さんばかりを目で追っている。それは私の視野が兄さんにしか向いていないということ。近づこうとすればするほどに私の意識は兄さんに注がれて、身の回りで起きる何もかもを些事だと切り捨てている。もっと大局的な見方をすれば見つけられたであろう最善を見逃してしまっているのかもしれない。
「ものすっごく現実的な言い方をすると、他人との距離感――あの二人にはその感覚が冴えわたっているのかもね。だからあの人が、私との間にある壁を越えて選んでくれた時はすごく嬉しかった……」
「お母さん……」
ああ……やっぱり私はお母さんに似てる。お母さんもお父さん一筋だったんだね。
しんみりとする二人だけの食卓。でもこの雰囲気が私には大切だと思えた。私の信頼のおけるお母さんとの間には、なんの隔たりもないのだとそう認識させてくれるから。
「あー、ははっ。なんか湿っぽくなっちゃったわね。早くご飯食べちゃうよ。片付けしてお風呂入って歯磨きして……今日は久々に一緒に寝ちゃう?」
「私はもう子供じゃないんだから! ……まあ、久しぶりだから、いいよ」
「お、じゃあベッドの上でスタンバってるねー。この話はまたベッドの上でー。詩由の好きな人もまだ聞いてないしー」
「お母さん! なんか言い方が卑猥だよっ!」
仕事場では厳格なキャリアウーマンとして辣腕を奮っているであろうお母さんは、ウキウキしながらまたご飯をパクパク口の中に放り込んでいく。
お父さんが死んでしまった時、亡骸の隣で慟哭し、己の全てを失ってしまったかのような抜け殻のお母さんはもういない。大切な人を失ってしまった深い悲しみはお母さんにしか理解できないだろうけど、こうして私たち二人で笑いあえている今がこれ以上なく嬉しかった。
「ごちそうさまっ! しゆっ。どうせならお風呂も一緒に入っちゃおうよ!」
お母さんとお父さんが離れてしまった理由。私はまだそれを知らない。お父さんが浮気をしてしまったと聞いていたけれど、そんなわけがない。
「もう、お母さんわがままなんだから……」
気になってはいたけれど、それも知らないままでいいのかと、私は今この場にある家族との絆をしっかり噛みしめていた。




