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選択する僕と妹―6

≪南雲詩由≫


 手芸部の扉の鍵はかかっておらず、私は気分よく扉を開いた。入り口からすぐに見える作業スペースでは、背中を丸めた兄さんが作業机に向かっていた。

 集中している兄さんに申し訳ないと思いながらも控えめに声を掛ける。


「お疲れ様、兄さん」

「おーお疲れ。部長」

「部長って呼ばないでよ……あ、もう作り始めてるんだ」


 勉強机に似た広めの作業台の上にはミシンや裁縫道具が並んでいる。兄さんの手元には大量の綿と表面の滑らかな布袋のようなものが置かれていた。


「ああ。まだ手を付け始めたばかりだけどな。まあ、ぬいぐるみみたいなもんだよ」

「人形ですか? 何かの催しにでも参加するのですか?」


 そう問うと、兄さんは難しい顔で腕を組み、低い声で唸りだした。


「ん~……いや、別に……なんとなく?」

「はい?」


 とうとう、いや、昔から兄さんは頭がおかしい……い、いけないっ! 兄さんの頭がおかしいだなんて私はなんてこと考えてるのっ! 兄さんの頭がおかしく思えるのは私の頭がおかしいからよ。身の程を知りなさい! このばかっ! 私のばかっ!


「でもなんだろう? どこかで実物を見た、とかそんなんじゃないんだ。どうしてだか人形の構想が頭に浮かんでくるんだよ。人形なんて作ったことなかったんだけど、ちょっと作り方調べてこの勝手に浮かび上がってくるアイデアを形にしてみようかなーと」


 兄さんは気まぐれでパッチワークに勤しんだり、キーホルダーにでもつけられそうなフェルト生地の小物を製作したりしている。今回の人形作りもそれらに似たようなものだろう。


「写真や絵で見た、というのは?」

「いや、後ろ姿とか足の付け根の部分なんかの細部まではっきりと頭に浮かぶんだ。手に持った布の触り心地も、この掌が覚えてる」


 兄さんは自分の開いている手をじっと見つめ、そしてグッと握った。


「まあ、小さい頃それで遊んでたとかそんなんだろうけどな。なんか急に思い浮かんできたから僕も不思議に思っただけさ」


 へらっ、と笑ういつもの兄さんの笑顔は私の気持ちを和ませてくれる。


「ふふっ。それじゃ、出来上がったら私に見せてよ。小さい頃の記憶だったら私も覚えてるかもしれないから」

「それもそうだな」

「兄さんは昔のことなんてすぐ忘れちゃうんだよねー。私の小さい頃の記憶には兄さんとの思い出が一杯詰まってるのに」

「おまえとの小さい頃の思い出って……喧嘩ばっかだったような気が」

「ちゃんと楽しい思い出も少しはあった! もう……」


 人形作りを再開した兄さんをこれ以上邪魔するのは悪い――私は共用スペースに置いてあるパソコンに向かい生徒会から頼まれていた仕事と、授業で宿題となっていたレポートの下書きを作成した。

 兄妹でありながら離れた住居に暮らしている私たち――少なくとも私にとっては兄さんと同じ空間にいられるだけで安心感に似た幸福を得られている。私は幸せを感じられるこの場所が大切だし、兄さんにとってもそうであって欲しいといつも願っていた。


「そろそろ帰るか。あんまし座りっぱなしだと禿げちまうぞー」

「禿げるのは兄さんだけだから」


 ま、兄さんが禿げても私は大好きなんですけど。

 帰り支度を整え、私と兄さんは肩を並べて校門を出た。校門を出て街路樹の並び立つ長い坂道を下っていく。西の空でオレンジ色に光る夕陽が私たち二人の影を遠くまで伸ばし、私はつい影が重なってしまうくらいにまで兄さんに近寄って歩いた。影だけを見ると、まるで愛し合う男女二人が幸せそうに寄り添い合っているようで、私は密かに嬉しくなった。


「なあ詩由。母さんは元気か?」


 話題も見つからずもどかしい気持ちで坂道を下りていると、兄さんはそう聞いてきた。


「元気だよ。兄さんあんまり家に顔見せないからお母さんも心配してたよ? あの子ちゃんと食べてるのかな、って」

「一応自炊はちゃんとしてるし、割と暢気に暮らしてるからあんまり心配すんな、って伝えておいてくれ。その内そっちの家にも行くからさ」

「うん。私も楽しみにしてる」


 お父さんが死んでから数日が経った頃、お母さんは兄さんに一緒に住まないかと誘った。お父さんと離婚した後も兄さんに家族としての愛情を持ち続けており、気の強い性格上、気丈に振る舞っていながらも度々兄さんのことを心配しては溜息を吐いていた。

 兄さんもこっちに住んでくれればいいのに……でも、兄さんには兄さんの想いがあるんだ。いつ聞いてもはぐらかされるけど、多分何らかの決意があって兄さんはあの家に留まっている。妹である私だからこそ兄さんを信じてあげないと。

 兄さんを支える――そう思ってはいつもあの時の記憶がよみがえってきた。

 お父さんの眠る傍らで、いつまでも涙を流し続ける兄さんの姿。脳裏に焼きつけられたあの時の光景を思い出す度、私は自分の罪の重さを量り、目が眩みそうになる。

 今はどう思っているの? そう聞きたくなっていた。

 住居が所狭しと立ち並ぶ閑静な住宅街のT字路で、兄さんは私の方を向き軽く手を挙げた。兄さんとはここで別れることとなる。


「あんま朝無理して迎えに来なくてもいいからな」

「えっ?」


 未だ回想から抜け出せていなかった私は息を呑んだ。

 兄さんは私が傍に居ると迷惑なの? あの時みたいに、私はやっぱり兄さんの足枷にしかなっていないの?


「そんじゃな」


 ――待ってよ。どうしてそんな平然と恐ろしいことを言うの? 兄さんはその言葉がどれだけ私にとって残酷なのかわかってないの? ねぇ待ってよ。


「ま、待って兄さん!」


 背を向けて離れていく兄を私は縋る思いで引き留めた。このまま兄さんを帰らせてしまったら、明日からの自分の生きがいを見失ってしまいそうだったから。


「ん? なんだよ」

「兄さんは……」


 辺りの静けさに反し鳴りやまない鼓動。それを何とか抑えつけ、私は兄さんに聞いた。


「兄さんはあの時のこと、後悔してない?」

「あの時……」


 私の言葉を受け、兄さんはその意味を悟ったように目を細めた。

 今まで何度も聞こうとして何度も踏みとどまった質問。もし後悔しているのなら私は贖罪としてこれからも兄さんに尽くしていかなければならない。後悔していなかったら、兄さんの寛大な心にこれからも寄り添っていきたい。

 兄さんがどちらの答えを選んでも私の行動指針は変わらない。しかし、これからずっと、それこそ一生私の人生を支えていくものとなるだろう。

 身を尽くすか――。

 それとも身を奉じるか――。

 どちらかが私の全てとなる。


「僕はさ」


 住宅街から見える大きな夕焼け空を仰ぎ、兄さんは声を紡いでいく。


「自分で言うのもなんだけど、父さんと母さんが離婚して、同じ家に住む家族が父さん一人になってから、僕は父さんに絶大な信頼を寄せていた。これからは父さんと二人で力を合わせて生きて行かなくちゃいけない、がむしゃらに働く父さんの力になってやりたい、そんな家族の絆みたいなものを父さんとの間に感じてた」

「うん」

「だからさ、本当の意味で死ぬまで頑張ってた父さんを僕はあまり心配してなかったんだよ。一度手足ガリガリの髭ボーボーで帰ってきた時は、さすがに病院行けよって言ったんだけどな」


 兄さんが見上げる夕焼け空にはカラスが優雅に飛んでいた。兄さんにはそこに生前のお父さんの姿を思い浮かべているのだろうか?


「僕が心配してたのは母さんと詩由だったんだよ」

「私たち?」


 兄さんに目を向けられ、ドキリと心臓が高鳴った。


「離れて暮らすことになったとしても、僕にとって母さんとおまえは血の繋がった家族だからさ、やっぱり何度も何度も気にかかってた。母さんは父さんより何倍もしっかりしてて今でも頼もしく思ってるし、詩由は母さんのハイスペックなとこを受け継いでるから、僕ら男二人よりよっぽど上手く世の中を立ち回って生きてるんだろうとはなんとなく想像できたけど、二人に弱い面があることも知ってるからさ」

「うん……そうだね」


 兄さんが言うように、私は母さんの優秀な面を見習って強く生きていたつもりだった。でも私には、離婚してからの父さんや兄さんがどんな生き方をしてるかなんてまともに考えたこともなかった。どうせ二人共ヘラヘラ笑いながら暢気に暮らしているのだろうと、それは信頼ではなく、呆れに似た諦観の心境であった。

 私は家族としての絆を、父さんと兄さんに対して失いかけていたのかもしれない。


「あの時、詩由を救うことができて本当によかったよ」

「兄さん……」


 私の全てを優しく包み込むような、心の底から聞きたかった言葉が聞こえてきて、思わず目から涙が溢れてしまう。兄さんの前だから、家族である兄さんの前だけでなら、私はこうも簡単に弱くなれるのだ。


「ん……?」


 兄さんは怪訝な表情を浮かべた。私がつい兄さんの優しい言葉に泣いてしまい、それを不思議に感じてしまったのかもしれない。


「あ、ご、ごめん兄さん。つい嬉しくって」

「あぁ。いや、別にいいんだ。ただちょっとな」


 何かを探すように兄さんは虚空をキョロキョロと見回していたが、「またか」と呟いてすぐ私に向き直った。


「朝早くから僕を迎えに来てくれたりさ、手芸部が存続できてるのもおまえのおかげだって僕は知ってる。手芸部は、どうでもよくなってくるくらいほんの小さな幸せをさりげなくくれる、平々凡々な僕にとってこれ以上ないくらいにピッタリの居場所だよ」

「兄さんにとっても、あの場所は大切な場所なんだね」

「当たり前だろ? できることならいつまでもずっとあの場所で手遊びに励んでいたいもんだな」


 その言葉だけで私の心は報われる。これまで兄さんの為に尽くしてきて本当に良かった。そしてこれからも兄さんの人生に自分の人生を費やそう。


「今じゃ指に針を刺すことも全然なくなってきてさ、無性にあの頃の痛みが恋しくなってくる時があるんだよ。わざと指先を針でチョンチョン、って突いた時の感触が…………うっししっ」

「に、兄さん?」


 いけない。兄さんが変な性癖に目覚め始めている。私ももっと注意して兄さんを見ておかないと。私たちの大切な場所が兄さんので血まみれになっちゃう。


「んまあ、何が言いたかったかって言うと、毎朝早く僕ん家来て体調崩されでもしたら手芸部は僕一人になっちゃうだろ? 部長がいないと僕一人じゃ存続できないんだ。自分の身体もちゃんと大事にしろよ」


 兄さんは私の身体を労わってくれていた。それなのに勝手に一人で不安になってしまう私はまだまだ心が弱い。兄さんの為にも私はもっと強くならなければ。


「うん。ありがとう兄さん……っていうか、部長って呼ばないでってば」


 拗ねながらそう言い返すと、兄さんは笑みを浮かべながら私に背を向け手を挙げた。


「ははっ。すまんすまん。そんじゃな。腹だして寝るなよー」

「んなっ! お腹なんて出して寝ません! 兄さんのばかーっ!」


 高らかな笑い声を上げながら、兄さんは走って私から離れて行ってしまう。兄さんの笑顔の余韻に浸りながら、私は立ち止まったまま心の中で呟いた。


 ――私も、兄さんに尽くしてきて後悔したことなんて一度もありませんよ。


 するはずがない。だって、こんな近くに幸せを感じられる場所があるのだから――。

 機を見計らったように、私の横を手を繋いだ親子連れや、双楠高校の制服を着た女子生徒のグループが通り過ぎていく。誰もが皆笑っており、何かいいことでもあったのだろうか? と、他人の幸福をあれやこれやと想像してみた。

 想像しながら右手で触れた私の頬は、笑っているような感触がした。


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