選択する僕と妹―2
家族が四人だった頃、僕らはマンションに住んでいた。そんなに広くはなかったけれど、あの頃は四人もいたのに部屋の狭さなんて感じさせず、家族がスッポリ収まるリビングや短い廊下を僕は縦横無尽に駆け回っていた。
凛とした立ち振る舞いで気の強い母さんと、いつもヘラヘラ笑っている父さんは両極端な性格で、何度も馴れ初め話を聞いてみても、二人共頬を赤くするだけでいつまで経っても教えてはくれなかった。それだけ二人は愛し合っていて、自分たちだけの思い出を大切にしたかったのだろうと、今ではそう思う。
そんな両親二人に育てられた僕と詩由はありふれた幸せを享受できていたのだろうが、互いを想い合う両親とは違い、僕と詩由は不仲であった。
僕の誕生日は四月。そして詩由の誕生日は翌年の三月。僕らは双子ではないが、同年度に生まれたれっきとした兄妹だ。だから同じタイミングで小学校に入学したし、中学校にも入学したし、現に今同じ高校の同じ学年で授業を受けている。
本当に僕は兄で詩由は妹なのかと疑いたくもなるほどに、詩由は僕よりも断然優秀だった。小学生の頃は陸上教室で表彰され、勉学方面では常にテストで満点の成績を収める。そんな何でも上手くできてしまう詩由に、僕が八つ当たりをして何度も喧嘩に発展していた。
だが兄妹で仲違いを起こすのも、日常的な生活の一部であったのだろう。僕は父さんも母さんも好きだったし、優秀過ぎる妹の尖った性格も、学年が上がるにつれ冷静な目で見ることができるようになっていた。
その僕たち家族に変化が起きたのは、僕と詩由が中学校に入学し夏の暑さに汗を垂れ流している頃だった。
仲のよかった両親が突然離婚した。
父さんは自分で俺が浮気したのだとヘラヘラした顔で言っていた。けれども僕は一度、夜中に父さんと母さんが二人だけで話し合っている場面を目撃した。その時、いつも気の強い母さんは泣いていたし、いつもヘラヘラしている父さんは真顔で母さんの肩に手を置いていた。あの二人の姿に本当の理由が隠されていることを、僕は今でも心の内に秘めている。
母さんが僕と詩由を引き取る予定だった。詩由は問答無用で母についていくと父さんを非難していた。僕らはまだ中学生に上がったばかりで、幼き純粋さが残っていたのだから詩由の言い分を否定できなかった。
僕は夜中に見た両親の姿を思い出し、家族に告げた。
「僕は父さんについていくよ。一人じゃ寂しいじゃん?」
僕は父さんでも母さんでもどちらでもよかった。どちらとでも僕はまたありふれた幸せをつくりあげていける自信があった。それだけ僕は父さんも母さんも家族として愛していたのだ。
母さんの寂し気な表情、父さんの感極まった表情は今でも忘れられない。
僕と父さんの二人暮らしが始まった。がしかし、それは僕の予想していたものではなかった。
母さんと詩由が家を出て行ってから、父さんはほとんど家に帰ってこなくなった。帰ってきたとしても夜はいつも零時を過ぎ、朝はいつも僕より早く家を出ていた。少ない休日にたまに見せる父さんの顔はかつての能天気な表情をつくらず、血色の悪い肌と痩せこけた身体はまるで終末期の老人を想起させ、僕は一度、堪らず父さんに医者に行けと懇願した。
しかし、父さんは震える頬を持ち上げてこう言った。
「あと少しなんだ。頼む弦二。父さんを見守っててくれないか? こんな頼みを聞いてくれるのはもう、おまえしかいないんだよ」
死に際のような掠れた声は間違いなく僕の父さんの声だった。
「俺にはもう、おまえしかいないんだ」
父さんは仕事で、それこそ命を削っている――僕にはそう感じ取れた。
何も事情を明かされないまま僕が中学三年生になった頃、自分のスマホに一本の電話が入った。
電話口から聞こえてきたのは知らない女の汚らしい声。
『あー、あー。あんたさぁ南雲詩由のお兄ちゃん? ちょーっとあんたの妹にいらついたからさぁ、今いたぶってる最中なんだわ』
わけもわからない電話に混乱する頭の中。続いて聞こえてきたのは詩由の悲鳴だった。
『たす、ったすけてっ! にいっ、さん……」
「詩由? おいっ、詩由!」
『いひひっ! こいつがずぅーっと兄ちゃんの名前呼んでっからよぉ、わざわざ電話してやってんだぜぇ? これで状況わかったろ~? とりあえず五十万でいいや。それとこの妹を引き換えな?』
「おいっ! ふざけ――」
不意に電話が切られ、その直後に場所の記されたメールが届いた。指定された場所は家から歩いてニ十分程度、走れば十分強はかかる。人気のない鬱蒼とした場所であることに違いなかったが、それでも意を決して行かなければ妹がどんな目に合うかわからない――僕は要求された金など用意せず、玄関にしまわれていた金属バットを手に持った。
妹は勤勉で真面目な性格をしていたが、その分敵をつくりやすかった。中学では生徒会長として全校生徒の模範となるべく優良生徒の立ち振る舞いを常に心がけていたが、それだけで不良生徒からは反感を買ってしまう。まして詩由は誰とも構わず物怖じせずに注意喚起を行っており、どれだけ運が悪くともこのような厄介ごとに巻き込まれる状況は予想できなくはなかった。
詩由は僕の家族、たった一人の妹だ。決して見捨てはしない。
記憶の中の僕は妹を助けるべく玄関のドアノブに手をかけた。しかしまた自分のスマホが震えてドアノブを捻ろうとした手が止まった。
知らない番号からだった。嫌な予感がしたが、僕は電話を取った。
『もしもし、こちらは鵜久森総合病院です。上乃弦二君で間違いありませんか?』
「は、はい」
『たった今あなたのお父様――上乃真治さんが職場で倒れ救急搬送されました。危篤状態です。今すぐ病院に来てください」
耳を疑った。何度も何度も電話越しにいる女性に確認した。聞き間違いであれと、何度も怒鳴りつけるように聞き返した。しかし相手の声は冷静だった。
『今すぐに病院に来てください。お父様はまだご存命です』
まだ? まだっていつだ? 四十年か五十年後くらいか? 普通に長生きすればそれくらいもつだろう。
大丈夫。僕はこれから妹を――。
『急いでくださいっ! お父様はあなたの名前を呼んでいますっ!』
冷静な声が急に緊迫したものへと変わり、焦燥感が身体全体を襲った。
「――っ!」
足がガチガチに固まって動かなかった。目の前の扉を開いて、僕は一体どこへ向かえばいいというのか。
窮地の妹の元へ?
死に際の父の元へ?
どっちに行くのが正解で、どっちに行くのが間違い?
押し寄せる思考の濁流に頭が破裂してしまいそうになっていた。
「今すぐっ、向かいます!」
咄嗟に閃き、僕は病院との電話を切り、親友へと連絡を入れた。しかし、僕の親友は電話に出てくれず、五回コールを鳴らしたところで諦めた。
僕一人でどちらにも行かなければならない。どちらに向かうにせよ悩んでる時間なんてこれっぽっちもなかった。握り絞めていた自分のスマホを足元に投げつける。
僕は玄関の扉を開き、妹の元へと向かった。
「――っ。ごめん父さん。もうちょっとだけ待っててくれよ!」
指定された場所へと金属バットを握り絞め、一心不乱に走った。何も考えないように。何か考えてしまうと今すぐにでも足が止まってしまいそうで、歯を食いしばり、腕を振り、ひたすら足を前へと進ませた。
辿り着いた人気のない廃工場に他校の制服を着た女子五人と、白い肌に擦り傷や痣をつくった詩由がいた。卑しい笑みを浮かべていた五人は、金属バットを持った僕を見て怪訝そうな顔をした。
「おいてめぇ、持って来いっつったのはそんな棒じゃねぇんだけどなぁ。いかにも弱っちぃ顔して、あたしらに勝てると思ってんのぉ?」
一番前にいた女番長さながらの女子が僕に詰め寄ってきた。詩由は工場の壁にぐったりと背をもたれて座り込んでおり、怯えた目で僕を見ている。
「に、にいさぁん……」
初めてかもしれない妹の弱り切った姿を見て、僕の何かが吹っ切れた。
「話聞いてんのか? そんなもん持ってきて――ゴフッ!」
近寄ってきた女の腹に金属バットの先端を突き立てた。それだけで女は腹を抱え、地面へとひれ伏した。それを見た他の女子四人はギョッとした目で僕を見ていた。
「はぁっ、はぁっ」
走ってきて上がっていた息はまだまだ落ち着かないでいた。しかし、そんな息を整える時間さえもったいなかった。
「早くっ、こいよ。僕にはっ、時間がないんだ!」
もう一人が僕に襲い掛かってきたが、そいつの肩を思いっきり打ち抜くと地面へと喚き崩れた。それからは他の三人が地面へと膝をつく二人を抱え、僕に罵声を浴びせながら廃工場を出て行った。僕はバットを投げ捨て、詩由の下へと駆け寄った。
「詩由っ!」
「に、にいさん」
座り込んでいた詩由に声を掛けた。幸いにも日常生活に支障をきたす怪我はしていないように見え、詩由も自ら立ち上がって僕に抱きついてきた。
「ごめんなさい兄さん。ありがとう……」
「いや、よかったよ。だがな詩由。悪いが時間がないんだ」
「えっ?」
「おまえもこいっ! 急ぐぞ!」
汗ばんだ手で呆ける妹の手を引き、僕はまた来た道を戻り始めた。走っている間、周りの景色も、通り過ぎる人の顔も、握っているはずの妹の手の感触もわからなくなっていた。自分の体力の限界もわからず、ただ目的地に向かって走っている現実だけが僕をどうしようもなく焦らせた。
鵜久森総合病院――受付で父が搬送された部屋を聞くと、看護婦さんも迅速に僕らを案内してくれた。患者の多い病院の中ですら僕は小走りで駆けていた。
「兄さんっ。どうしてここに?」
戸惑いの消えない詩由。しかし、詩由を助け出してから僕には妹を構ってやる余裕がなかった。詩由には本当に悪いことをしたと今では思っている。何の予兆も知らされず、何の情報も与えられず、自分の父親の死と対面したのだから。
看護婦さんに連れられるがまま、僕はとある病室の扉を開けた。
ピーーーーーー。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……はぁっ」
扉を開けた瞬間鳴り渡った電子音。
それは一つの命が失われた音。
僕は父の死に間に合わなかったのだ。
「はぁっ、はぁっ……っ父さん!」
それでも僕は父さんを呼んだ。病室の入り口からベッドに横たわる亡骸に近づき、父親の死に顔を見下ろした。
笑っていた。微かにではあったが、口の端は上がっており、僕には笑っているように見えた。
込みあがってくる懐かしさに触れ、悲しみが自分の目から溢れ出した。
「とうさんっ、ごめん……間に合わなくてごめん……」
ベッドの横に膝をつき、穏やかに眠る父さんの手を取って何度も何度も謝った。許されることは二度とない。僕が父さんの死に際に間に合わなかったのは、一生許されない罪と同等の重みであるのだと、自分で自分を戒めたかった。
父さんの骨ばった手を涙でぐちゃぐちゃにしていた僕に、ベッドの近くで父さんを看取ったであろう一人の看護婦さんが声を掛けてきた。
「弦二君ですね? あなたのお父さんは一時的に意識を取り戻し、最後の言葉を残しました」
僕を電話越しに呼んでいた声。その声はとても優しい声だった。
「俺たちに別れなんていらない。そうだろう? ――と」
他人から聞かされた父さんの最期の言葉は、僕の胸の奥にストンと落ちた。
何とも父さんらしい言葉だった。悲嘆に暮れてしまうはずの死別さえ、その言葉は悲しみを吹き飛ばす呪文のように僕の心を明るく照らそうとしてしまっていた。でも、だからこそそれが本物の父さんの言葉だと、まがいもない現実に涙は止めどなく流れ落ちる。
「ああっ、父さん。父さんは、僕の心の中で生きてるよ」
「ありがとう」と、父さんの亡骸に声を掛けた。
「これからもよろしく」と、心の中にいる父さんに話しかけた。
すすり泣く自分の泣き声と、「私のせい……?」と、自問自答する詩由の声だけが聞こえていた。病院独特の匂いや、ベッドの周りを医者や看護婦が囲っていることに気付いたのは、涙を枯れ果たし、看護婦さんに肩を叩かれた後だった。




